なつかしくて楽しく、さわやかで嬉しいニューヨークの風を運んできてくれたディックとピーターが帰っていった。
ハリケーン「サンディ」の被害を気にしながら。でも、持ち前の明るさでそれを笑って否定し「何があっても大丈夫、なんとかなる」と互いに言い交わしながら。
2人はとても良い夫婦、ならぬ、良いカップルでありパートナーである。同性愛者への偏見、という摩訶不思議な色眼鏡をかなぐり捨てて見れば、きっと「同性愛差別主義者」でも僕の主張に頷(うなづ)くに違いない。
もっとも差別をする人間は、どうしても色眼鏡を捨てられないから「差別者」なんだけれど・・
ディックは人間として善良で、性格的に明るい、しかも優れたTVディレクターである。
それはかつて僕が、同僚として彼とニューヨークで付き合った経験から導き出した結論。
彼は以後も変わりなくそのように存在しつづけ、今、ピーターという生涯の伴侶を連れて僕を訪ねてくれた。
ピーターはディックに良く似た、いかにもディックにふさわしい連れ合いであるように見えた。つまり、善良で明るく、かつ細やかな神経の持ち主。
ディックは善良で明るいところは配偶者にそっくりだが、相当にアバウトで大まかな神経の持ち主なのだ(笑)。
だからこそ、彼はTVディレクターという仕事の分野では独創的になる、と僕は密かに思っている。それが陳腐な発想と批判されかねないのは承知している。でも、僕は本気でそう信じているのである。
それはさておき、このエントリーで僕が本当に話題にしたいのは、同性愛者の結婚について、ということである。
僕はゲイではないが、同性愛者に対してほとんど何の偏見も持たないし、もちろん差別もしない。彼らの結婚に対しても賛成である。
僕は今、同性愛者に対して【ほとんど】何の偏見も持たない、と言った。なぜ【全く】ではなく【ほとんど】なのかというと、僕は彼らの結婚には賛成だが、彼らが子供を持つということに対して、少し疑念を抱いているからである。
そして、そういう疑念を抱くこと自体が既に同性愛者への偏見、という考え方もできると思う。だから僕は今のところは、同性愛者に対して【全く】何の偏見も持たない、と胸を張って言うことはできないのである。
実はそのことについて、僕は今回ディックとピーターの2人と議論した。それはとても意義深いものだった。
それについてはまた書くが、僕はその前にゲイの人たちを偏見・差別する者に聞きたい。
「彼らはゲイであることであなたに何か迷惑をかけていますか?」
と。
彼らはゲイではない者に別に何らの迷惑もかけない。もちろん、家族や環境などの状況によっては、ゲイであることで波風を起すケースもあるだろう。しかし、そういう場合でも「先ず同性愛者への差別・偏見ありき」という事例がほとんどだと思う。
ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない。
差別するどころか僕は、どちらかと言うとゲイの人々が好きである。
ディックをはじめとして僕には何人かのゲイの友人がいて、知り合いも少なくない。
そして多くの場合彼らは、ディックのように性格が明るくてユーモアのセンスに溢れ、才能が豊かである。
その逆のケースももちろんある。が、僕が知る限り、ゲイの人たちは面白くて有能な者である割合が高い、と感じる。
ただ僕が彼らを好きなのは、才能が豊かだからではなく、性格が明るくてユーモアがある、というのが主な理由だけれど。
元々そんな事情があるが、僕の大好きな友人のディックが、彼のゲイの恋人・ピーターと正式に結婚した。
25年という長い春を経て。
そして米ニューヨーク州が同性愛者の婚姻を正式に認める、という歴史的な変革を経て。
僕は20世紀最高峰のイタリアワイン、1997年物の「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」を開けて、妻と共にディックとピーターの結婚を祝った。
ほぼ15年の歳月をかけて熟成した赤ワインは絶妙な味がした。
25年の歳月をかけて愛を育て、結実した2人の友のように・・
ディックとピーターとブルネッロ・ディ・モンタルチーノと