同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。

 

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

 

同性愛にしろ異性愛にしろ、子供ができようができまいが、そんなものほっとけ!というのが現代人の感覚だろうが、昔の人々はそうは考えなかった。それはある意味理解できる思考回路である。

 

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

 

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。だから子を成すことができない同性愛などもってのほか、ということになった。

 

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められた時点で、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなった。ゲイたちは大手を振って前進すればいいのである。事実彼らにとってはそういう生き方は珍しくなくなった。僕はそうした状況を良いことだと素直に思っている。

僕はこの前の記事で、話を分りやすくするために「ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない」と書いた。それは飽くまでも分りやすいからそう書いたのであって、同性愛者・ゲイを差別する根拠に対しては、実は僕はそんなことよりももっと強い違和感を抱いている。

ゲイを差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。それはなんと言っても同性愛差別が「余計なお世話」以外の何ものでもないと思うから。

 

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念も抱く。彼らが子供を持つというのは、自らの「権利」意識の表明でもあり、それは尊重されるべきことである。ところがその場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利がきれいさっぱりと忘れ去られているように見える。僕はその点にかすかな不安を覚える。

陳腐な主張に聞こえるだろうが、全ての子供は生物学的な父親と母親を持つ権利があるのではないか、と僕は考えるのである。それでなければ、子供は成長するに従って必ず他の子供たちから、そして社会から「いじめ」や「差別」を受ける。それによって子供が蒙る被害は甚大である。 

 

たとえゲイの両親を持っていなくても、子供たちはあらゆる原因で差別やいじめに遭う。むしろそれが無いほうが珍しいくらいだ。それでも「ゲイの両親」を持つ子供への偏見や差別やいじめは、他の原因による場合よりも激しいものである可能性がある。

 

だからこそ、子供たちにいじめや差別を教え込む社会の歪みを正さなくてはならない。そのためには、今でも既に同性愛者を差別しない僕のような人間がさらに一歩進んで、彼らが子を成すこと、子を持つことも認めて、差別やいじめを否定しなくてはならない。同性愛者を差別しないと表明しながら、彼らが子供を持つことには反対、というのは論理の破綻であり偽善である。そればかりではない。

 

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致するのではないか。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。

 

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその部分では幸せである。しかし、今の社会の現状では、彼らが心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算も非常に高いとも考えられる。

 

是々非々のそれらを全て勘案した上で、僕は今のところはやはり、同性愛者カップルが子供を持つことには積極的には賛成しない立場である。

 

繰り返しになるけれども、僕はゲイの皆さんを差別することはなく、彼らの子供たちに対しても偏見差別などしない。それどころか僕は必ずそれらの子供たちを慈しみ、他の「普通の」子供たちと分け隔てのない存在と見なし、又そう行動するだろう。僕の家族や友人知己にも僕の意見を浸透させる努力をし、あらゆる機会をとらえて同じような活動もするだろう。その上で、それでも「今のところは」やはり、彼らが子供を持つことには微妙に疑念を持つのである。

 

忌憚なく言えば、要するに「そこまでしなくてもいいのではないか」と心奥のさらに深いところで思う。

 

ゲイの皆さんは多くの困難を乗り越えて、ついに同性愛者同士の結婚が認められるところまできたのである。その喜びは2人の間で噛みしめ分かち合って寿げば十分ではないか。多くの混乱と苦悩を受け渡す危険がある「第三者の子供」を巻き込む必要はないのではないか。

この主張が同性愛者に厳しくかつ差別的な態度である可能性を恐れながらも、友人のディックが彼のゲイのパートナーと結婚したことを機会に、僕はこうして、あえて自らの意見を開陳しておこうと考えた。