「大関2場所連続全勝優勝」の勲章を引っさげて横綱になった日馬富士は、九州場所でまさか驚嘆なぜ?ビックリの5連敗。ついには9勝6敗のぶざまな成績で千秋楽を終えた。
大関2場所連続全勝優勝というのは、大相撲史上最強の横綱であろうあの双葉山と名横綱貴乃花の2人しか成し遂げていない大記録である。
僕はそれを踏まえて日馬富士が大横綱になる可能性があると考え、あちこちでそう書いたり発言したりもした。でも日馬富士は新横綱の場所で早くも挫折し、相撲ファンに大きな失望と不安を与えた。
横綱になって初めての場所で信じられないような醜態を演じたから言うのではないが、日馬富士が横綱昇進前の2場所を無敗で快進撃していた間も、どこかに常に頼りない感じを漂わせていたのは紛れもない事実である。
それは彼の軽量から来るものであったり、スピードを盲信した勇み足的な動きだったり、カッとなって攻めが乱暴になったりする戦い振りにあった。要するにどっしりとした安定感が欠落していて、見る者は常にハラハラドキドキしながら観戦する羽目になるのである。
勝ち続けている限りハラハラドキドキ感は決して悪いことではない。むしろそうあった方が観客は喜ぶ。たまに負けるようなケースもファンは許す。しかし、15日間の大相撲の本場所で横綱が5連敗もしては話にならない。それはブザマ以外の何ものでもない。
体重だけではない「軽さ」を克服しない限り、日馬富士は史上最悪の情けない横綱になる可能性もある。そしてそれは今にはじまったことではないのだ。
それでも僕は、日馬富士が秋場所の千秋楽で白鵬を倒して横綱昇進を決定的にした相撲を見て、彼が真に強い力士になったと心から思った。
その相撲で日馬富士は立会い鋭く踏み込んだものの、横綱白鵬のそれが勝って不利な態勢になった。直後、白鵬右四つの組み手の左を巻き変えて双差しになった。巻き変える動きは相手に付入る隙を与えることが多く危険だが、この時の日馬富士の動きは素早くしかも安定感があった。
それでも白鵬はさすがの横綱、日馬富士の態勢のわずかな乱れを見逃さず、チャンスと見て一呼吸置いたあとすぐに寄り立てた。そして日馬富士の腰がわずかに伸びた瞬間を捉えて、巻き変えられて上手になっていた右腕で強力な投げを打った。いつもの「軽い」日馬富士ならここでこらえ切れずに投げ飛ばされてもおかしくなかった。
ところが日馬富士はびくともしなかった。幕内最軽量の体重がまるで巨大な鉛のカタマリになったのでもあるかのように動じなかったのである。日馬富士はそのあと、攻めて攻めまくる、攻めの連続から振り回すような下手投げを打つ。こらえ切ろうとした横綱はイヤイヤをするように大きく回転したあと、地面に這いつくばった。
大一番の勝負の分かれ目、圧巻は、疑いもなく日馬富士が白鵬の上手投げをぐっとこらえた瞬間の重さ、強さだったと僕は思う。そこを見て、あ、日馬富士は白鵬とはホントに力が拮抗しているんだな、と僕は実感したのだった。
大横綱白鵬に匹敵するほどの「重さ」が加わった地力に、日馬富士独特の瞬発力を活かした立会いの鋭い当たりがさらに速く厳しくなれば、彼はたちまち同様に軽量だった千代の富士並みの大横綱だ!と僕はその時確信したものだった。
それなのに、ああそれなのに、フタを開けてみると新横綱の場所での仰天の大崩落。あまりの出来事に僕は脱力してしまった。まだ大横綱への道は開かれているとは思うが、けっこう悲観的な気分。
突然のようだが、彼が日本人女性を妻に選ばなかったことまで暗い材料に見えて仕方がない。今後もしも険しい道が続いた場合、良くも悪くも古い日本が凝縮されて存在する大相撲界で生きる彼にとっては、奥さんが日本人である方が何かと助けになると思うのだが。
実は、外国人力士は日本人女性と結婚したほうが為になる、というのが僕の独断と偏見に基づく持論である。
日本の心が分らずに不祥事を起し続けて、ついに引退にまで追い込まれたあの横綱朝青龍も、もしも日本人女性を妻にしていたなら、あるいは状況が変わっていたのではないか、とさえ僕は本気で考える。
その意味では、応援している大関把瑠都が、白人女性と結婚したのも気がかりである。ロシア人の奥さんは、たとえ日本が大好きだったとしても、把瑠都自身と同様に日本文化や人情の奥深い機微までは中々理解できないこともあるのではないか。
そういうとき逆に、しっかりとした日本人女性が配偶者なら、相撲の師匠の導きとはまた違う、内助の功的な助け舟を出すことができる。そこは日本の伝統と文化が充満する独特の大相撲世界。外国人が完璧に空気を読めるようになるまでには、相当の時間がかかるに違いないのだ。それどころか、あるいはそれは永遠に来ないのかもしれないのである。
九州場所で把瑠都が大関から陥落することが決まったのは、そのこととは恐らく関係がないだろう。しかし、長期的にはやはり何らかの影響が出てくるかもしれない、と考えるのはただの杞憂だろうか・・ぜひ杞憂であってほしいと思う。