一時帰国をした。

32日にイタリアに戻って、時差ボケのまっただ中にいる。

仕事でも遊びでもよく旅をするが、僕はいつも非同期症候群の大波に見舞われて結構つらい思いをする。

時差ボケは若くて体力のある人ほど症状が軽いと言われる。

が、僕は若いときから常に症状が重かった。

それに慣れて対処法も分ってきた分、むしろ若くなくなった今の方が変調が少ないような感じさえする。

ともあれ、世の中には時差ボケにならない人もいるから、僕のはきっと体質に違いなく、従ってうまく付き合って行くしかない。

というふうに考えると、ますます症状が軽くなるような気がしないでもないから不思議である。「日々是好日」の心境の縁に佇んでいるのだ。

体調不良ながら、だから、気分は少しも暗くない。気分が暗くないと、霞がかかったようにはっきりしない頭の中にも光が差すようで、考え事さえ苦痛ではなくなる。

そうやって少し考えた。

帰国以前から気づいていたことだが、最近特にイタリア旅行をしたい、という日本の友人知己が増えている。

彼らにとってはイタリアは非日常である。だから新鮮だし、憧れる。

ところが僕にとっては、イタリアは慣れきった日常である。イタリアを夢見る彼らとは逆に、僕にとっての憧れとは、実は、自分が生まれ育った国、日本である。

長い外国生活を経て僕は今、日本をすごく新鮮に感じている。長い間、平均して1年に3回強程度の割合でイタリアと日本を行き来して過ごしてきた。

大まかに言えば、2回強は仕事で、1回は休暇でというふうだったが、休暇は仕事を兼ねることも多く、また若いころは仕事で帰国する回数がかなり多かった。

テレビの仕事を減らしたここ数年は、仕事と休みを兼ねて1年に1度くらい帰るのが常となっている。

帰国する頻度が減った最近特に、イタリアと日本というのは天と地ほども違う、まことに異質の世界だ、と今更ながら感じる。

異質ながら似ている部分も実はまた多いのだが、違いの部分がはるかに大きく際立って見えるのである。

日伊の違いは、若いころは自分の中でいわば消化吸収されて融和していて、「違うが、でも同じだ」みたいな感覚になっていたように思う。

今は日伊の違いが鮮明で、かつ違いの度合いが大きいと感じる。しかもそうした違いは、僕にとってはとても心地よいものである。

イタリアと日本を隔てる飛行時間12時間の時空を超えるたびに、全く違う新鮮な世界に出会ったと感じて僕はとても興奮する。

そんな折には、日伊を往復して暮らしている自らの境遇を、結構幸せだ、と思ったりもするのである。