数字上の明確な勝者がいなかった2月の総選挙の後、イタリアはカオスのただ中にあるように見える。
政府もなく、例えて言えば国王たる教皇ベネディクト16世が退位して、国家元首もいない。大統領は健在だが、イタリア国民の精神的支柱という意味では、やはりローマ教皇が最大最強の存在である。
そのことを踏まえて、敢えて再び例えて言えば、今のイタリアの状況は、政府が無く、天皇もいない日本国のようなものである。
日本がもし本当にそんな状況に陥ったら、どうなるだろうか。
恐慌が社会を支配して惨憺たる有り様になるのではないか。
指針がなければ自らを律せない、無節操な大勢順応主義社会の限界である。
その点イタリアは実は、カオスなどに嵌(は)まりこんではいない。
カオスに絡め取られるかもしれないと誰もが警戒していて、その警戒心が崩壊しようとする社会をしっかりと支えている、という局面である。
ということは、イタリアは大丈夫、ということである。
国のガイドラインがなくてもイタリアの各地方は困らない。都市国家や自由共同体として独立し、決然として生きてきた歴史がものを言って、地方は泰然としている。
イタリア国家が消滅するなら自らが国家になればいい、とかつての自由都市国家群、つまり旧公国や旧共和国や旧王国や旧海洋国などの自治体は、それぞれが腹の底で思っているふしがある。
思ってはいなくても、彼らの文化であり強いアイデンティティーである独立自尊の気風にでっぷりとひたっていて、タイヘンだタイヘンだと口先だけで危機感を煽りつつ、腹の中ではでペろりと舌を出している。
「イタリア国家は常に危急存亡の渦中にある(L`Italia vive sempre in crisi)」
と、イタリア人は事あるごとに呪文のように口にする。
それは処世術に関するイタリア人の、自虐を装った、でも実は自信たっぷりの宣言である。
誕生から150年しか経たないイタリア国家は、いつも危機的状況の中にある。
イタリア国家は多様な地域の集合体なのであり、国家の中に多様な地域が存在するのではない。
つまり地域の多様性がまず尊重されて国家は存在する。というのが、イタリア国民の国民的コンセンサスである。
だから彼らは国家の危機に対して少しも慌てない。慣れている。アドリブで何とか危機を脱することができると考えているし、また実際に切り抜ける。歴史的にそうやって生きてきたのだ。
イタリア人ではない僕でさえ、彼らがなんとか危機を克服するだろう、と楽観的に見ている。
その認識は、言うまでもないことだが、イタリアでの日々の暮らしの中で僕が実際に見聞きしてきた、多くの事象に基づいて形成されたものである。
その顕著な事例の一つが、僕がこれまで何度も行なってきた、イタリアと日本を結ぶ衛星生中継の現場。
衛星回線を利用してのテレビの生中継の現場は、失敗の許されない極度に緊張した空気の中で進行する。
ディレクターの僕は言うまでもなく、スタッフの作業を見守るプロデュサーもカメラマンも中継車スタッフも誰もかもが、それぞれの持ち場で一回限りの本番に備えて完璧を期して仕事をする。
そうした中で必ず起こるのがイタリア側の仕事の遅れ。あるいはミス。あるいは不正確。あるいは緊張感の無さetc・・
極端なケースでは、本番間近になっても衛星回線が繋がらなかったり、繋がっても映像が出なかったり、音声が途切れたりということが平然と起こる。
それにも関わらず、少なくとも僕が手を染めた番組では、彼らは生中継に穴を開けたことがただの一度も無い。ぎりぎりのところでいつも「なんとか」してしまうのである。
一時が万事、イタリア人はそんな風に当意即妙の才に長けている。あるいは反射神経が鋭い。あるいは機転がきく。
繰り返しになるが、それはほんの一例である。でも、あらゆる局面で見られるイタリア人の目覚ましい才覚だと僕は密かに感じ入っている。
そんな訳で、無政府状態に陥った今回の政治の混乱も、彼らはその才能を十二分に発揮して無事に切り抜ける、と僕は信じて一向に疑わないのである。