エジプトはナイルの賜物。今日あるイギリスはサッチャーの賜物・・
2013年4月8日、サッチャー元英国首相の訃報を聞いて僕はすぐにそんなことを思った。
大英帝国からチャーチル、そしてサッチャーへ
それなら英国はチャーチルの賜物でもある、という声が聞こえてきそうだ。だが第二次世界大戦を戦い抜き、勝利した偉大なチャーチルの遺産は、ゆりかごから墓場までと謳われた行き過ぎた社会保障制度に代表される、イギリス国家の浪費と油断と驕りによってすっかり失われ、いわゆる英国病だけが残った。産業革命に始まる大繁栄を経て二度の世界大戦で疲弊し、その疲弊に気づかずにさらに自らを傷つけ続けた黄昏の大国、イギリスに現れたのが鉄の女マーガレット・サッチャーだったのである。
サッチャー元首相が政権を握った頃のイギリスは、まさに重篤の英国病に罹って喘いでいた。英国史上初の女性宰相は、そこに活を入れて社会を大胆に改革した。3期12年近いサッチャー政権をあえてキーワードで括れば「小さな政府」「自由主義経済」「規制緩和」「競争原理」「緊縮財政」「英米蜜月」「EC(後のヨーロッパ連合)との対立、あるいは垣根越しの友情」「武力行使を含む毅然とした外交」などなど・・と言えるだろう。
サッチャー元首相は、それらの政策を強力に推し進めて、英国病と嘲笑され、荒廃し、弛緩しきった老大国イギリスの政治・経済・社会を再生させた。あるいは再生への道筋をしっかりと示した。その後に続いたジョン・メジャー、トニー・ブレア、ゴードン・ブラウン、そして現職のディヴィッド・キャメロン政権は、マーガレット・サッチャーが新しく敷き直したレールの上を楽々と走り、今も走っているに過ぎない、と主張してもあながち過言ではないだろう。功罪を併せて、まさに「今日あるイギリスはサッチャーの賜物」なのである。
巨星をあえて私ごと的視点から見ると
1979年、マーガレット・サッチャーが政権に就いて、1982年にフォークランド紛争で果敢に軍事力を行使するまでの一部始終を、僕は実際に英国に住んで間近に目撃・実体験した。ちょうどその頃、僕はロンドンの映画学校で学んでいたのだ。
颯爽と登場したサッチャー首相のやる事なす事の全ては鮮烈だったが、彼女が打ち出した改革政策は、怠け癖が骨の髄まで沁み込んだ当時の英国民だけではなく、外国人にも厳しく対する内容で、東洋から来た貧乏学生の僕にとっても結構つらいものがあった。
その最たるものは、全ての留学生はイギリス国内で仕事をしなくても勉強を続けて行けるだけの十分な資金を有していることを、内務省に証明しなければならない、とする制度だった。簡単に言えばビザの更新の度に銀行口座の残高を示して、十分に学資があることを証明するのだ。それができなければ滞在許可が下りないから帰国するしかなかった。
それは、勉強にかこつけて仕事ばかりをしている外国人がいて、彼らがイギリス人の仕事を奪っている、とする外国人排斥意識を正当化した立法措置だった。今の日本などにも垣間見える、経済不振に喘ぐ先進国にありがちな度量の狭い、ほとんど言いがかりでしかない政治の動きだった。だが当時は、次々に新しいアイデアを繰り出すサッチャー首相の、さらなる名案だとさえ考えられたのだった。
学費を含む当時の僕の留学資金は乏しく、アルバイトをしながら生活費を稼ぐような境遇だった。そこで僕は金持ちのアラブ人やイラン人などの友人に頼み込んで金を借り、一時的にそれを銀行口座に入れて残高証明をもらって内務省に提出する、ということを繰り返した。金は残高証明を入手するとすぐに引き出して友人らに返還した。
裕福な者はもちろん別だが、多くの貧乏な学生は多かれ少なかれ皆そうやって苦境を乗り越えようとした。それでは埒が開かない場合、EC(欧州経済共同体、後のEU・欧州連合)域内国籍の者と偽装結婚をして、ビザを取得する書類結婚(ペーパー・マリッジ)をする者も続出した。ぶっちゃけた話、僕らのような外国人貧乏留学生にとっては、サッチャー新首相は敵以外の何ものでもなかったのだ。
栄光の3大スーパースター&3大イベント
マーガレット・サッチャーは偉大な政治家であり、スーパー・スターだった。当時でもそうだが今振り返ってみると余計にそんな印象を持つ。スーパー・スターは自身が輝くと同時に、得てして時代そのものの輝きも受ける、という幸運を持ち合わせるものだが、マーガレット・サッチャーの場合もまさしくそうだったと思う。当時、彼女の輝きに合わせるようにたくさんの出来事や、事件や、人物や、異変や、椿事が発生しては時代を疾駆して行った。僕の記憶の中では、特に3つのイベントがサッチャー首相と深く結びついて絡みつき、さんざめいて、今も鮮明に思い出される。
その3つのイベントとは、ジョン・レノンの暗殺、ダイアナ妃の結婚、そしてフォークランド紛争である。
サッチャー首相の就任から約一年半後の1980年12月8日、イギリス音楽界の至宝ジョン・レノンがニューヨークで殺害された。彼は当時ニューヨークに居を移していたが、人々の心の中ではイギリスの地に常在している偉大なアーチストにほかならなかった。天才の死を知らせる悲しいニュースが入った日、僕らはロンドン市内のパブに集まって、ラガー・ビールの大ジョッキを片手に「イマジン」を合唱しながら泣いた。それは言葉の遊びではない。僕らは歌いながら皆本当に涙を流したのだ。そうすることで連帯感を感じたのか、あるいは連帯感があるために歌に涙がかぶさったのか、今でも判然としない。多分その両方だったのだろう。
その頃のサッチャー首相は、倦怠と澱みと沈滞が最高潮に達したイギリス社会を改革するべく、強い意志を持って奔走はするものの、まだ政治的に大きな成功を収めるところまでは行かずにいた。そして僕ら留学生はと言うと、サッチャー首相の動きに翻弄されながらも、実は英国病などどうでも良く、彼女の政治経済政策などはもっともっとどうでも良かった。英国社会の最下層にいる若い外国人留学生の僕らにとっては、ジョン・レノンの死の方が何百倍も重要だったのだ。
悲劇の翌年、1981年7月29日には明るい話題が英国を沸かせた。ダイアナ・スペンサー嬢がチャールズ皇太子と結婚したのだ。式典の模様は全世界にテレビ中継されて大きな反響を呼んだが、実はそれは、一回限りの式典そのものよりもさらに大きく且つ継続的に世界の耳目を集めることになる、未来の「英国の薔薇」、ダイアナ妃の誕生の瞬間を世界に知らしめる世紀のショーでもあった。
英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という考え方があるが、それは正鵠を射ていると僕は思う。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドであり、そこの最大の人気キャラクターがダイアナ妃だったのである。
サッチャー、ジョン・レノン、ダイアナ妃という、僕の中のイギリスのスーパー・スター御三家がそうやって出揃い、同時にそれは3大イベントの核心でもあるという、いよいよもって忘れがたい歴史が紡がれて行くことになった。
サッチャーの成功の秘密の一つ
ダイアナ妃の結婚に続いて、3番目のイベントでありサッチャー首相の政治生命を決定的に輝かせることにもなる大事件が起こった。それが1982年3月に勃発したフォークランド紛争である。サッチャー首相はそこで断固として武力行使に踏み切り、開戦から3ヶ月でアルゼンチン軍を撃破した。
近代装備に身を固めた西側諸国の軍隊同士による史上初の武力激突は、平和ボケした世界の大半を驚愕させたが、その出来事は当事者であるイギリスにもっとも大きな変化をもたらした。
首相就任以来そこまで、経済低迷で不人気だったサッチャー政権は、紛争をきっかけに総選挙に勝利し、政権2期目の組閣を済ませると同時に急進的な経済改革に向けて力強く歩みだした。彼女の真の経済改革は実はこのときから始まったのである。
話が前後するようだが、それらの事件や出来事と平行して、1981年1月20日には、サッチャー政権と蜜月関係を結ぶことになる米国レーガン政権が船出をしていた。真のStatesman(国に命を捧げる覚悟を持つ廉潔な政治家)と呼ぶにふさわしい巨人だったマーガレット・サッチャーは、世界最強の権力保持者であるロナルド・レーガンを説得してフォークランド紛争の味方に引き込んだ。その後は英米一心同体とも形容できる親密な関係を構築して、その事実を後ろ盾にEU・ユーロッパ連合と一定の距離を保ちつつ孤高の道を歩む、という一見不可能に見える政策も徐々に可能にして行ったのである。