五輪招致に絡んだ東京都の猪瀬知事へのバッシングがすごいことになっていますね。ま、バッシングされて当たり前の呆れた「事件」を引き起こしたわけですが、僕は猪瀬さんの「事件」を、自分を含めた日本人はみな肝に銘じて、他山の石とするべし、と思っています。

 

つまり、東京都知事の中にごく自然に、さりげなく、暗澹として巣食っている「差別・偏見」病を、皆わが胸に手を当てて「あれは他人事」かどうか、と沈思検証するべき良い機会だと考えるのです。なぜならほとんどの日本人の中には、猪瀬知事と同じ密かな「差別・偏見」の病原菌が宿っています。

 

それは普段は表に出てこない沈黙の偏見であり差別意識です。その心の闇を抱えこんだ者は日本中に溢れている。そうした人々は偏見や差別なんて意識もしないし、考えてみることもない。その機会も理由もないからです。


かのマザー・テレサは「愛の反対は無関心」だと言いました。実は寛容や理解や融和の反対も無関心です。積極的な偏見や差別ではなくとも、人は無関心であることで偏見や差別に加担します。

 

そうした人は普段、猪瀬知事がやってしまったような偏見や差別に満ちた言葉を口にしたりはしません。でも実は彼らはそれを口に「しない」のではなく、口に「できない」だけです。なぜなら無関心だから。

 

無関心だから何も考えず、何も感じず、したがって言葉に紡(つむ)ぐ何ものも心の内にないのです。そして、そうした人々はまた当然、偏見や差別を糾弾する言葉も発しない。発することができない。ただ沈黙するだけです。

 

日本人の持っている寛容や理解や優しさは、そんな無関心に 拠っている場合が多々あります。国内の事柄もそうですが、特に日本という国の外の事案になるとその傾向が極端に強くなります。それは外国や外国人との接触が少ないことから来る、国際感覚の欠落の一つの証拠。明治維新以降言われ続けている、古くて常に新しい議論「精神的鎖国体制」は、今も歴然として日本に 残っています。島国の面目・根性躍如というわけです。

 

僕は長い間外国暮らしをしていますが、そこでもっとも気を遣うことの一つが、異文化や人種や宗教などに対して偏見を持ったり差別的な言動をしない、という行動規範です。僕はジャーナリズムの末席を汚すTVディレクターとして生きているため、そのことには特に神経を尖らせています。

 

たとえそうではなくても、日本の外に出て自らが「外国人」の立場で生きていく者にとっては、異文化や人種や宗教などは日常的に接するものですから、誰もがそれに関心を持ち、考察しながらそれらを受け入れ、理解し、共存しようと努力します。そうしなければ外国では生きて行けないからです。

 

それでも偏見や差別というのは100%克服するのが難しい。例えば僕は宗教や人種や異文化や女性やゲイ等々のホットなテーマに対して、全く偏見を持っていな い、というのは言い過ぎになるでしょうが、少なくとも偏見を持たない努力をし続けている、と自負しています。それでも例えば僕の自宅近くのスーパーの前で、買い物に行く度にアフリカ移民の男たちに金をねだられ続けると、決して口には出さずとも「仕事をしろ 怠け者の黒人」という言葉に近い、恥ずべき思いを抱くこともある、と白状します。それは心の奥の奥のどこかに「黒人=怠け者」という理不尽な偏見・差別意識が巣食っているからにほかなりません。

 

彼らは仕事をしたくても恐らくその仕事がない。仕事はあっても不法入国者であるため労働許可がない。だから働けない。あるいは合法移民で労働許可もあり労働意欲もある。でも不況のまっただ中にある今のイタリアでは、彼らにまで回ってくる仕事がない。あるいはただ単に黒人であることで差別されて、労働市場から はじき出されているだけかもしれない・・などなど、アフリカ系移民の人々が世界中で舐めてきた辛酸を思い、理解し、同情し、その負の歴史を正すべく全くの微力ながら努力もしているつもりでも、人生のどこかで刻印された胸の奥深くの偏見・差別意識は中々消えてはくれません。

 

意識してそれらと戦っている者でさえそうです。ましてや国内に留まっていて偏見や差別を考えてみる必要が余り無く、従って無関心でいるためにそれらを意識することさえない多くの日本人の場合は、それが消えてなくなることなどあり得ない。それはまさに無関心であるために普段は表に出てこないだけで、心の奥深く に巣ごもっています。そしてそれは何かの拍子に、化けて表に出てきます。猪瀬さんが何気なく重大な差別発言をしてしまったように。

 

沈黙を美徳と捉える文化を持つ我われ日本人は、世界がますますグローバル化して行く今こそ特に、差別や偏見というものが何であるかを、しっかりと口に出して議論しなければならないと思います。黙っていては偏見はなくならない。言葉にしなければ差別が何であるかが分からない。沈黙や無関心はただ「臭い物にフ タ」をしているに過ぎない。

 

言葉を発するという行為は、多くの日本人にとっては苦手どころか、苦痛である場合さえ少なくありません。しかし、世界がさらに狭くなり、インターネット・SNSの発達によってあらゆる情報が瞬時に地球上を飛び交う現在、日本人独特の「寡黙」は害悪でさえあれ決して良いことではありません。沈黙や寡黙は、偏見や差別を助長する悪しき習慣、と見なす方がグローバル社会には合致します。

 

都知事バッシングの矛先は、当初何よりも先ずイスラム教国や文化への差別発言、というところから出発したわけですが、時間と共に次第にそこからシフトしてやれ税金のムダ使いだ、やれ五輪精神を踏みにじる行為だ、やれ東京オリンピックの芽を潰した、知事を辞任しろ、トルコに行って謝罪しろ・・などなど、エスカ レートして行っています。

 

それらの論点は皆大事だと思いますし、僕自身も知事は大の親日国であるトルコまで出向いて、土下座して人々に謝罪をし、その上で今後は東京都もイスタンブールでのオリンピック開催を全面的に支持します、と宣言すればいいと思います。宣言するだけではなく、知事の地位に留まって本当にイスタ ンブール支援のために動けば、災い転じて福となる(する)ことも十分可能だと思うのです。

 

一方我われは、猪瀬知事の失言を他山の石として、自らの胸に手を当てて自問自答すればいいと思います。果たし て自分は彼とどれだけ違う意見や感情や見方を例えばトルコに対して持っているのか。ムスリムに対しては?中国や韓国に対しては?アフリカ人や近隣のアジア人に対しては?などと考え続け、発言をして行く「切っ掛け」に使えば、恐らく吹っ飛んでしまったであろう東京五輪の損失も取り返して、なおお釣りがくるのではないでしょうか。