イタリアの強豪チームACミランが本気で本田圭佑の獲得を画策している。

ACミランは周知のようにユベントス、インテルと共にイタリアセリアAの御三家を形成する正真正銘の名門。国際タイトル獲得数はスペインのレアル・マドリードやバルセロナ、あるいはイングランドのマンチェスターUなど、錚々たる世界のビッグクラブを抑えて世界一を誇っている。

そのミランが本田圭佑を本心から追いかけている事態は、日本サッカーの進歩を端的に表すもので、例えばコンフェデ杯での日本代表の惨敗よりもはるかに大きな、象徴的な事件だと僕は思う。

コンフェデ杯で3連敗したのは、残念ながら日本代表チームの現在の実力に沿った結果であり、それはたやすく予想できたことだ。6月のコンフェデ杯出場チームの中で、唯一日本がほぼ確実に実力で勝っていたのは、FIFAのランキングなどとは全く関係なくタヒチだけだったと僕は思う。それは少 しも悲観するべきことではないし、事件でもない。

世界屈指のクラブチームであるACミランが本田を熱心に欲しがるのは、それだけで日本サッカーのレベルアップを示す喜ばしいことだと思えるが、それにも増して僕が大きな感慨を抱くのは、イタリアのメディアが本田圭佑を「FANTASISTA・ファンタジスタ」とさえ呼称している事実である。

ファンタジスタとは言うまでもなくイタリア語のファンタジア(英語:ファンタジー)、つまり想像力とか独創性から来た言葉で、オリジナリティーに富むトップ下の選手などを表す場合が多い。

サッカー選手のレベルを表す言葉としてイタリア語にはfuoriclasse(フゥオリクラッセ)、つまり「並外れの」とか「規格外の」あるいは「超一流の」というようなニュアンスの表現があるが、ファンタジスタはそのfuoriclasse(フゥオリクラッセ)の中でも特に優れた選手を形容する、最大最高の尊称なのである。

ファンタジスタには規定や条件はなく、ファンやメディアが自然にそれと見なして呼びかける言葉で、極めて少数の選りすぐりの選手だけに与えられる称号である。それがいかに特別な意味を持つ呼び方であるかは、次に示すファンタジスタたちの名前を見るだけでも十分ではないか。

最近のイタリア選手で言えば、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、またFWではないがアンドレア・ピルロもそのうちの一人。さらに言えばバルセロナのイニエスタ、シャビ、レアル・マドリードのメスト・エジルなどなど。

マラドーナやジダンももちろんイタリア的な感覚ではファンタジスタだ。

イタリアのメディアが日本人選手にその称号を与えたのは本田が初めてである。中田英寿も中村俊輔も、イタリアでプレー中にはついにそう呼ばれることはなかった。

本田圭佑が彼らよりも優れた選手で、且つロベルト・バッジョやジダンやマラドーナにも匹敵する大物、と考えるのはさすがに早計だし意見の分かれるところだとは思うが、独創性や意外性に富む天才的な選手を表すファンタジスタという称号を、何事につけオリジナリティーや独自性を最重視する イタリアのメディアが彼に与えた事実に、僕は深い感慨を覚えるのである。日本サッカーも思えば遠くへ来たもんだ、という気分だ。

日本代表チームが世界でのし上って行くためには、多くの技術革新や戦術改正やメンタリティーの改革やサポーターの増大やサッカー文化の深化などなど、多岐に渡る進展が必要であるのは火を見るよりも明らかである。その中で最も欠けているのが、チームとしてのファンタジア力だと僕は思う。

ファンタジアとは前述してきたように、独創性、意外性、想像力、個性の強さなどといったメンタルなクオリティーのこと。言葉を替えれば「画一性の真反対にある全ての要素」である。そしてチームのファンタジア力とは実は、ピッチに立つ一人一人の選手のファンタジアの集大成である。

独自色や発想の奇抜やオリジナリティー、つまり「ファンタジア」を何よりも愛し高く評価する「独創の国」イタリアのメディアが、本田圭介を独創的なクオリティーを持つ選手、と認めている事実が僕はわが事のように嬉しい。

ファンタジスタ本田圭佑の誕生は、GKからFWまでの11人の全ての選手が、それぞれのファンタジアを身内に宿して世界に挑む「理想の日本代表チーム」誕生の兆し、と僕はあえて考えたいのである。