日伊がW杯決勝で相まみえる、なんてことになればとても嬉しいことですが、ま、今の段階では常識的にはあり得ないでしょうね。たとえば日本野球とイタリア野球が対決すれば大人と子供の戦いになる、と思います。日本が大人でイタリアが子供。サッカーではその立場が逆転してしまうのが日伊の実力差ではないでしょうか。大人と子供という例えは少し大げさとしても、日伊の力の差はまだかなり大きい。なにしろ周知のようにイタリアは、ワールドカップをブラジルの5回に次ぐ4回も制している強豪国です。

 日本代表は確実に強くなった

 日本サッカーは強くなりました。時間の記憶が正確ではありませんが、今から20年かそこらほど前に日本代表チームがイタリアに遠征して、こちらのクラブチームのユベントスと対戦したことがあります。雨天の中で行なわれた試合はユベントスが端から日本代表チームを圧倒し続けました。そしてユベントスは3―0になった時点でふいに力を抜き、明らかに手加減を始めたことが分かりました。日本代表のあまりのか弱さに同情したのです。

 イタリア人は日本が好きですから、日本代表をそれ以上痛めつけたくなかったのだろうと思います。その時の日本代表チームはとても存在感が薄く、セリエAで一、二を争う強力軍団のユベントスの前では全くなす術がありませんでした。その圧倒的な力の差はあまりにも明白で、むしろすがすがしいくらいのものでした。

 当時に比べると、日本代表は相当に強くなりました。隔世の感があると言っても過言ではないように思います。日本代表はたとえば今年6月のコ ンフェデ杯では、負けはしたもののイタリア代表チームと互角に渡り合いました。それどころかほとんど勝利を収めるほどの勢いでした。また日本サッカーは多くのセリエA日本人プレーヤーも輩出しています。

 最近の大きなニュースとしては、世界屈指の強豪チームACミランが、本田圭佑選手を獲得しようと本気で動いていることです。さらに究極の嬉しい(僕にとっての)報告としては、その本田選手を辛口のイタリアのスポーツメディアが「ファンタジスタ」と規定していることです。「ファンタジスタ」は選手に対する最高の賞賛であり、日本人プレーヤーに対して初めて使われた称号です。サッカー大好き人間の僕のような者にとって は、そうしたことはなんとも誇らしい「事件」なのです。

 国民総体の後押しが足りない日本

 日本サッカーの進歩をわれわれは素直に喜ぶべきです。たかがサッカー、されど「たかがサッカー」。でもサッカーは楽しく素晴らしく嬉しい。楽しくて素晴らしくて嬉しいサッカーを、自家薬籠中のものにしつつある日本はもっと素晴らしい。しかし、喜びはそこまでです。

 日本のサッカーは「今のままでは」今後何十年、もしかすると何百年経ってもイタリアサッカーに追いつけない可能性があります。従ってW杯決勝戦での日伊激突は永遠にやって来ないかもしれない。悲観的なことを考えるのにはもちろん理由があります。

 最大の懸念は、サッカーに対する日本国民の心がまだまだ十分には熱くない、ということです。あるいは日本国民の心が真っ二つに割れている。 まるで不実な恋人のように、日本国民はサッカーだけに集中できずに常に二心を抱いています。二心のうちの一心は、そうです、野球です。野球が存在する限り日本国民の心は二つに割れ続けてサッカーだけに熱狂することがない。野球とサッカーの間で心が揺れているのが日本人です。

 たとえばサッカー狂を自認する僕でも、実は元々は野球少年です。中学校までは実際にプレーもしました。しかし後年、僕が熱心なファンだったプロ野球チームの老オーナーの傍若無人な言動や、彼の思い上がった精神に強い怒りを覚えて以来、そのチームが嫌いになりやがてプロ野球そのものにも距離感 を覚えるようになってしまいました。それでいながら僕は、今でも大リーグで活躍する日本人選手の動向に一喜一憂し、夏の高校野球には遠いイタリアから熱い視線を送り続けています。事ほど左様に野球は、その人気に陰りが見えてきたとはいえ、まだまだ多くの日本人の心を鷲づかみにしている、というのが現実ではないでしょうか。

 サッカー強国とは「サッカー狂国」のこと

 ヨーロッパではどの国に行っても、サッカーが国技と呼べるほどの人気がありますが、中でもサッカーに身も心も没頭している国はイギリスとイタリアとドイツだとよく言われます。 イギリスはサッカー発祥の地だから分かるとしても、血気盛んなラテン系のイタリア国民と、冷静沈着な北欧系のドイツ国民がサッカーにのめりこんでいる状況は、とても面白いところです

 イタリアとドイツは、ワールドカップの優勝回数がそれぞれ4回と3回と、ヨーロッパの中では他に抜きん出ています。やはり国民が腹からサッカーを愛していることが、両国の強さにつながっているのだとも考えられます。もっとも今挙げた3国のほかにもスペイン、フランス、オランダ、ポルトガル等々、ヨーロッパにはサッカーに熱狂し且つ実力もあるチームがごろごろしている訳ですが。

 豊かな国々のヨーロッパでさえそういう状況です。サッカーに耽溺することぐらいが人生の楽しみ、という貧しい国々も多いアフリカや南米では、人々の心がサッカーへの情熱で熱く燃え盛っているのは周知の通りです。そういう下地があって、南米ではブラジルやアルゼンチンやウルグアイなどのサッカー大国が生まれました。

 日本は国民の総体が心の半分を野球に奪われ続けている限り、いつまで経ってもそれら世界の「サッカー狂」の強豪国には追いつけないのではないか。日本代表チームのテクニックや戦術や精神力といったものは、今後どんどん進歩して世界の強豪国に並びあるいは追い越すこともあるでしょう。しかし、国民総出の後押しがなくてはW杯のような世界の大舞台では勝てない。「クラブチームのサポーターは12人目の選手」と良く言われますが、ナショナルチームへの国を挙げての熱い応援は、12人目どころか13人目、14人目、もしかすると15人目の選手分にも匹敵するほどの力があるのです。

イタリアはなぜ強いのか

 長い間イタリアのプロサッカーリーグ「セリエA」を取材し、観察し続けてきましたが、 そこで最も印象的なことを挙げるとすれば、やはりイタリアのサッカー人口の多さ、裾野の圧倒的な広さだと思います。しかもそれを見つめる国民の情熱が強烈。各地方の我が強く政治的にはまとまりのないのがイタリアという国ですが、サッカーを愛するという一点ではイタリア国民の心はぴたりと一つにまとまっています。それが日本とは比べ物にならないほどに深くて強固で広大なイタリアのサッカー文化を形成しています。

 周知の通りイタリアサッカーは、ディフェンスの堅さからカテナッチョと呼ばれて嫌われたりもします。実はそれはもう陳腐と言っても良いほどの古い見方で、ほとんど偏見の類いに属します。当たり前だけれど、イタリアのサッカーは守備も中盤も攻撃も強い。だからW 杯を4回も制したのです。ただ、たとえばブラジルやスペインなどの、攻撃的で華麗な且つ見ていて楽しいサッカーに比べると、やっぱり守備が強いな、という印象は拭えない。強烈な守備力は勝つためには重要な要素ですが、ディフェンスが前面に出過ぎると、勝ちに行くよりも「負けない」ゲーム運びに見え勝ちですから、その意味ではイタリアサッカーはいつも損をしています。

 もっとも僕はイタリアのプレースタイルを勝手に「玄人好み」と名付けていて、意外性に富んでいながら渋い、深みのあるゲーム展開をするのが特徴だと考えています。堅い守りから電撃的なカウンター攻撃を繰り出すのがイタリアの伝統的な攻撃パターン、とこれまたステレオタイプに考えられ勝ちです。しかし、実は近年はそれは、特にスペインのポゼッションサッカーにも影響されて、大きく変わっています。今やイタリア代表チームの持ち味とは、カウンター攻撃とパス回しでゴールエリアをうかがう戦法を、ざっくりと見て半々程度にまで織り込み血肉化している点だと言えます。

 イタリアのサッカーは変わったのです。相変わらずの鉄壁の守りが変革を見えにくくすることもありますが、攻撃的で華やかになっています。しかし、そういうプレースタイルを持つ世界の強豪チームは、ブラジルを筆頭にアルゼンチン、スペインなど多く存在します。だからイタリアチームが獲得した攻撃性や華やかさは、実際よりも色あせて見えるのです。

 コンフェデ杯日伊決戦では「日本が負けた」のではない

  ンフェデ杯の準決勝でイタリアはスペインに惜敗しました。また周知のように日本は初戦から3連敗して、一次リーグで姿を消しました。日本はコンフェデ杯では完敗したとして、特に国内のサッカーの専門家を中心にほとんどバッシングと言っても良いようなブーイングが起きましたが、本当にそれに相応しいようなブザマな敗退だったのでしょうか?僕は全くそうは思いま せん。

 2試合目のイタリア戦を見れば、日本が相当に力を付けつつあるチームであることは火を見るよりも明らかです。あの試合は「日本が負けた」のではありません。W杯4回制覇の勇者「イタリアが勝った」のです。これは言葉の遊びではありません。日本は実質勝っていたのですが、底力の強大な古豪イタ リアが「勝っている日本に」襲い掛かって、これを「無理やり負かした」のです。つまり現時点での彼我のありのままの力量差が出た、ということにほかなりません。

 言葉を変えれば、日本が弱いのではなく、イタリアがまだ依然として強い。2点のビハインドをひっくり返し、かつ素晴らしい動きでプレッシャーを掛け続けるザックジャパンを、イタリアは苦しみながらも退けた。そこにこそイタリアサッカーの実力があります。もしもあれがイタリアではなく、スペイン、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどであったとしても、恐らく同じようなことが起こった可能性が高い。「ブラジルには初戦で3-0で負けている、寝言を言うな」と揚げ足を取らないで下さい。ここでは飽くまでも日本チームの「今現在」の実力を、敢えてイタリア戦にからめて語ろうと試みているだけです。

 日本はメキシコにも敗れて結局決勝トーナメント進出はなりませんでした。しかし僕はその事実をもって代表チームを否定する気には全くなりません。この前の記事にも書きましたが、コンフェデ杯出場8チームのうち、日本が確実に実力で勝っていたのはタヒチだけです。欧州と中南米のチームはもちろん、アフリカの強豪国ナイジェリアにも力負けしていた可能性が高い。言うまでもないことでしょうが、サッカーのアジア王者の実力は世界的にはまだまだ低いと考えるべきです。

 ザック批判ばかりでは日本は強くならない

   ンフェデ杯3連敗の厳しい結果を見て、日本ではザック監督へのバッシングも起こりましたね。このことにも僕は違和感を覚えました。3連敗の責任は、選手同様もちろん大いに監督にもあります。従って監督は批判されても良しとしなければならない。しかし、監督を替えればチームが突然強くなる、と言わんばかりの主張や分析は少しおかしいと思います。繰り返しますが敗戦の責任は監督にも多々あるので彼は批判されて然るべきです。しかしザック監督は、就任以来日本サッカーの向上のために大いに働いてきたこともまた事実だと思います。その証拠として世界一番乗りで2014年W杯出場を決めたことを挙げるだけでも十分でしょう。

 彼は世界屈指のサッカー指導者生産国であるイタリアにおいても、一目置かれている存在です。ミラン、インテル、ユベントスのイタリアセリエA御三家の監督にもなりました。イタリアには多くの優秀な指導者がいますが、セリエA御三家全ての監督を歴任したのは、ザック監督のほかには2002年W杯日韓開催時のイタリア代表監督であり、この国随一のサッカー指導者とも見なされているジョヴァンニ・トラッパトーニ監督がいるだけです。その事実は決して小さくありません。

 経験豊富な監督であるアルベルト・ザッケローニは、日本大表チームにヨーロッパの風を吹き込んでチームの底上げに成功した。それなのにコンフェデ杯での3敗を理由に彼を解雇するべきと、短絡的に主張するのはどうでしょうか。百歩譲ってザッケローニを解任したとして、それでは次は一体誰を監督にすれば日本チームは強くなるというのでしょうか?ペップ・グアルディオラ?ジョゼ・モウリーニョ?ビセンテ・デル・ボスケ?ブラジルのスコラーリ?あるいはマンチェスターUを長年率いたアレックス・ファーガソン?その誰でもありません。それらの世界的な「勝ち組」の監督が日本代表チームを率いても、日本が「突然」今以上に強くなることはないのです。

 監督がチームを変えるのではなく、チームが監督を変える

 分り易く極端な例で言います。たとえば中学生のサッカーチームにどんなに偉大な監督を据えてもW杯で優勝できるチームにはなりません。監督はいかに優れた者でも、チームの力量の中でしか戦術を立てることはできないのです。言葉を替えれば監督はチームを変えることはない。チームが監督を変えるのです。つまり、チームの力を見抜いて、自らをそれに合わせてチームの力を最大限に引き出すのが監督の仕事です。その作業の連続がやがてチームの力の底上げを招く。優れた監督は各クラブやナショナルチームを渡り歩くたびに、常にそうやってこれを指導しています。

 例えばスペイン代表チームを率いて目覚ましい戦果を挙げ続けているデル・ボスケ監督が、明日から日本代表監督に就任したとします。でも彼は、逆立ちしてもすぐさま日本代表チームをスペイン代表のように作り変えることはできません。彼はもちろんザッケローニ監督とは違う指導をするでしょう。が、それは飽くまでも日本代表のレベル内での改善や戦術転換や展開であって、日本代表チームが自らの限界を超えて突然違うチームに変身する訳ではないのです。ザック監督を更迭すれば、日本代表チームが魔法のように生まれ変わって、コンフェデ杯やW杯で快進撃をするだろう、とでも言いたげな主張はちょっとどうかと思います。

 チームが不振続きの場合、監督の首をすげ替えるのは世界のプロチームの常套手段です。それには戦略や方向性を含む全てのチームカラーを一気に変えてしまおうという意味と、チームに活を入れる、つまりショック療法で不振の連鎖を断ち切るという意味があります。従ってザッケローニ監督を解任するのはもちろん「あり」です。しかし、繰り返しになりますが、それによって日本チームが突然ブラジルやスペインのレベルにジャンプアップするのではないのです。

 日本代表は脱亜入欧を目指せ

 日本チームの最大の課題は、アジアという低レベルの土俵が主戦場である点です。強豪がひしめく南米や欧州の舞台に立つためには、そこで勝って国際大会への出場権を得るか、親善試合で世界のトップクラスと相まみえるかですが、国際大会へは常に出場できるとは限らず、また親善試合では本気の戦いは望めず、従ってレベルの向上には余りつながらない。そんなハンディキャップを背負っていますから、せめて監督ぐらいは世界の実情を知り世界に通じる「外国人」にした方がいいと思います。

 日本人監督の場合、いかに優れた指導者であっても、時どき「世界の感覚」に欠けるケースもあるように見受けられます。たとえ世界感覚を体得しているように見えても、やはり彼はアジアの島国である日本の土壌から完全に自由であることはできないのです。つまりそれは世界土俵では、島国的視野や思惑や感性に捉われて限界に見舞われやすいということを意味します。従って日本代表チームが「世界感覚」をしっかりと身に付けるまでは、欧州や南米など、サッカー文化が強固に根付いた国々の指導者を監督に迎え続けた方がいい、と考えるのです。

 そうやって代表チームが徐々に世界感覚を体得し、そこでプレーした選手やスタッフが恩恵を受けて彼らも世界的な感覚を身に付けて行き、やがて将来彼らの中から指 導者が生まれた時、日本は国際的にも堂々と渡り合える和製監督を獲得することになります。日本代表チームが強くなるとは、将来優れた監督が日本に続々と誕生することも意味しているのです。

 その場限りのチーム批判や監督バッシングは脇に置いて、長期的な視野に立ってサッカーの裾野をさらに広げること、つまり日本国民の心を分断している野球との競合に勝つこと。同時にアジアのさらに先に広がる「世界のサッカーの感覚」を育てること。これが日本サッカーを真に強くする秘訣だと考えます。その二つの課題を達成した上で、日本の特徴であるスピード、テクニック、組織力、運動力などにさらに磨きをかけて行けば、W杯の決勝で日本とイタリ アが激突!という血湧き肉踊るような夢の舞台の出現も、きっと夢ではなくなるものと僕は密かに期待しています。