悟りとは「いつでもどんな状況でも平気で死ぬ」こと、という説がある。
死を恐れない悟りとは、暴力を孕んだいわば筋肉の悟りであり、勇者の悟りである。
一方「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という悟りもある。
不幸や病気や悲しみのどん底にあっても、平然と生き続ける。
そんな悟りを開いた市井の一人が僕の母である。
子沢山だった母は、家族に愛情を注ぎつくして歳月を過ごし、88歳で病に倒れた。
それから4年間の厳しい闘病生活の間、母はひと言の愚痴もこぼさずに静かに生きて、最後は何も分からなくなって眠るように息を引き取った。
療養中も死ぬ時も、母は彼女が生き抜いた年月のように平穏そのものだった。
僕は母の温和な生き方に、本人もそれとは自覚しない強い気高い悟りを見たのである。
同時に僕はここイタリアの母、つまり妻の母親にも悟りを開いた人の平穏を見ている。
義母は数年前、子宮ガンを患い全摘出をした。その後、苛烈な化学療法を続けたが、副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をおくびにも出さずに毎日を淡々と生きた。
治療が終わった後も義母は無事に日々を過ごして、今年で87歳。ほぼ母が病気で倒れた年齢に達した。
日本の最果ての小さな島で生まれ育った僕の母には、学歴も学問も知識もなかった。あったのは生きる知恵と家族への深い愛情だけである。
片やイタリアの母は、この国の上流階級に生まれてフィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきた。学問も知識も後ろ盾もある。
天と地ほども違う境涯を生きてきた二人は、母が知恵と愛によって、また義母は学識と理性によって「悟り」の境地に達したと僕は考えている。
僕の将来の人生の目標は、いつか二人の母親にならうことである。