イタリア最高裁は先月初め、脱税事件で起訴されていたベルルスコーニ元首相に禁錮4年の有罪判決と公職追放を言い渡しました。以来彼は、国会での上院議員資格剥奪審議(採決)を待つ身になっています。公職追放は議会の承認を必要とするのです。

国会で公職追放命令が追認されれば、元首相は上院議員の地位を失って、彼の政治家生命はほほ終わり、従って政治的な影響力もなくなると考えられます。そのことを知悉しているベルルスコーニ氏は、自らが党首を務め且つ自身の政治活動の牙城でもある自由国民(PDL)党を介して、連立政権の相手である民主党と同党のレッタ首相に、彼の上院議員追放決議に賛成票を投じないようあらゆる圧力を用いて直接間接に揺さぶりをかけています。

自らが救助されない場合は、自由国民が連立を解消して、政権基盤が極めて脆弱なレッタ内閣を一気に崩壊させる、と脅しをかけているのです。深刻な財政危機と不況のただ中にあるイタリアは、そこから脱出するために安定した政権を是が非でも必要としています。元首相は国家の非常事態を逆手にとって、自らの利益にしようと画策を続けている訳です。盗人猛々しいとはまさにこのことを言うのではないでしょうか。

元首相は少女買春容疑等を含む数々の醜聞や訴訟事案を抱えながら、過去約20年に渡ってイタリア政界を牛耳り、首相在任期間は4期9年余に及びました。

今回の言わば「居直り」とも取れる行動を持ち出すまでもなく、他の先進民主主義国ならありえないようなデタラメな言動・行跡に満ちた彼を、なぜイタリア国民は許し、支持し続けるのか、という疑問が国際社会では良く提起されます。その答えは、世界中のメディアがほとんど語ろうとしない、一つの単純な事実の中にあります。

つまり彼、シルヴィオ・ベルルスコーニ元イタリア首相は、稀代の「人たらし」なのです。日本で言うなら豊臣秀吉、田中角栄の系譜に連なる人心掌握術に長けた政治家、それがベルルスコーニ元首相です。

こぼれるような笑顔、ユーモアを交えた軽快な語り口、説得力あふれるシンプルな論理、誠実(!)そのものにさえ見える丁寧な物腰、多様性重視の基本理念、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさ、などなど・・・元首相は決して人をそらさない話術を駆使して会う者をひきつけ、たちまち彼のファンにしてしまいます。

彼のそうした対話法は意識して繰り出されるのではなく、自然に身内から表出されます。彼は生まれながらにして偉大なコミュニケーション能力を持つ人物なのです。人心掌握術とは、要するにコミュニケーション能力のことですから、元首相が人々を虜にしてしまうのは少しも不思議なことではありません。

彼はそのコミュニケーション力を相まみえる者は言うまでもなく、彼の富の基盤であるイタリアの3大民放局を始めとする巨大情報ネットワークを使って、実際には顔を合わせない人々、つまり視聴者にまで拡大行使してきました。

イタリアのメディア王とも呼ばれる彼は、政権の座にある時も在野の時も、飽くことなく実に頻繁にテレビに顔を出して発言し、討論に加わり、主張し続けてきました。有罪確定判決を受けた今も、彼はあらゆる手段を使って自らの無罪と政治メッセージを申し立てています。

だがそうした彼の雄弁や明朗には、負の陰もつきまとっています。ポジティブはネガティブと常に表裏一体なのです。即ち、こぼれるような笑顔とは軽薄のことであり、ユーモアを交えた軽快な口調とは際限のないお喋りのことであり、シンプルで分りやすい論理とは大衆迎合のポピュリズムのことでもあります。

また誠実そのものにさえ見える丁寧な物腰とは偽善や隠蔽を意味し、多様性重視の基本理念は往々にして利己主義やカオスにもつながります。さらに言えば、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさは、徹頭徹尾のバカさだったり鈍感や無思慮の換言である場合も少なくありません。

そうしたネガティブな側面に、彼の拝金主義や多くの差別発言また人種差別的暴言失言、少女買春、脱税、危険なメディア独占等々の悪行を加えて見れば、恐らくそれは、イタリア国民以外の世界中の多くの人々が抱いている、ベルルスコーニ元首相の印象とぴたりと一致するのではないでしょうか。

元首相の人たらしの神通力は、幾つもの裁判沙汰の末に“ついに”有罪が確定した今回の出来事で一気に縮小し、彼の命運ももはや尽きたように見えます。しかし、まだまだ彼のカリスマ性に呪縛されているイタリア国民は多くいます。隠然たる影響力を持つ彼の巨大メディア王国やそれに関連するビジネスネットワークも健在です。彼はそれらを使って、今後も人心掌握の為になりふり構わない動きを続けることでしょう。

稀代の「人たらし」は実はまた世紀の寝業師政治家でもあります。政治力と巨大な財力を使った彼の今後の工作によっては、ベルルスコーニ元首相がイタリア政界に君臨し続け、事態が紛糾する可能性も依然として高いと言わなければなりません。そして、もしもこの期に及んでもイタリア国民がそれを許すようなら、残念ながらイタリア共和国の民度は著しく低いものである、とも断定しなければならないと思います。