日本語の敬体と常体、つまり「です。ます。」調と「だ。である。」調の間にある齟齬について考えるうちに、袋小路にはまってしまってブログが書けなくなった。
書けなくなったのは考えがまとまらないからである。そのテーマはこの個人ブログと、二つの公けのサイトにも投稿するつもりでいるので、敬体の「です。ます。」調で書くつもりであり、実際にワードに書き起して推敲を始めてもいる。
でも、いま言ったように考察がうまく進まない。
そこで思い切って、先ずここに書いてみることにした。
書くという行為には、言うまでもなく自分を表現するという意味があるが、自分を表現するには事前に考えをまとめておく必要がある。それでないと文章の意図が読み手にうまく伝わらない。
ところが同時に書く行為には、矛盾するようだが「考えをまとめる」、という効能もある。それは自己表現に勝るとも劣らない「書くことの喜び」の一つである。
しかし、ここでは喜びのためではなく、あくまでも考えをまとめる目的で先ずは書いてみることにした。いわば推敲を表沙汰にすることなので、読みづらさや見苦しさがあるかもしれない。
また展開によっては続きがあり、公けのブログへの転載の際には書き換えや加筆等もあるかもしれない。
常体と敬体の間にある齟齬は、僕の感覚では本音と建前の間にある「落ち着かない感じ」と良く似ている。
両文体ともに書いている内容は同じだが、語尾を常体で締める代わりに敬体で締めると、「だ。である。」の場合よりも一歩後ろに引く感じがする。
常体は世界中にある恐らく全ての言語と同じ意味合いを帯びた文体。いわば世界基準の表現方式。少なくとも僕が多少は知っている英語とイタリア語に於いてはそうである。
「だ。である。」調の常体が僕の本分である。あるいは本分であるように感じる。しっくり来る。
「です。ます。」調の敬体は丁ねいである分、たとえば自分が強く主張したいことなどをオブラートに包んで、少しだけ角を取って丸くする感じがする。
「本音の主張が、突然そこで建前になる」というのは、少し誇張が過ぎるが、そうなりかねないような不安を呼び起こす。
ならば、「です。ます。」調はしっくり来ないのかというと、これがそうとばかりも断定できないから、ますます不思議である。
敬体を採用する時の自分の心が一歩うしろに引く感じ、建前になるような感じ、主張をオブラートに包むような感じ等々は、どちらかと言うと全てネガティブな作用である。
「自らの主張がオブラートに包まれて丸くなる感じ」などは特に、読み手の反応を恐れて弱腰になったり、あらかじめ逃げを打っていたりするようで男らしくない。
男らしくないという表現が滑稽なら、潔(いさぎよ)くない。それどころか卑怯な印象さえある。その点は気に入らない。だが、その文体には明らかな利点もある。
「です。ます。」調は敬体と規定されていることからも分かるように、また実際に言葉の響からも知覚できるように、読み手を敬う丁ねいな表現である。
そこには日本語独特の自然な優しさと同時に、自らの主張を是としない読み手もいるであろうことを予想して、その存在を認め、反対論者も是とする、とでもいうような至って寛容で闊達な心意気も隠されているのではないか。
つまり、断定し決めつけるのではなく、主張を公けに展開してそれに対する議論を待つ、という風なへりくだった態度、謙遜、思い上がりの無さ、慎み深さなどに通じる、ポジティブな様相を隠し秘めているのが「です。ます。」調の敬体なのではないか、と思うのである。