最近、僕は急速にハゲてきている。年齢も年齢だから珍しいことではないし、血筋もハゲの系列だから、さらに大きくハゲることへの覚悟もできている。

それでも、ハゲるのはなんだかイヤだなぁという気分がどうしてもついて回る。それどころかハゲることが不安なようでもある。われながらうっとうしいもの思いである。

なぜそうなのか、と考えつづけていたら見えてきたものがある。

つまり、ハゲは実は女性の問題であり、そう考えてみると、なんとオッパイは実は男性の問題なのではないか、というオソロシイ結論に至ったのだ。

そこで僕は自分のコワイ発見を、10年以上に渡ってスペースをもらっている日本のある新聞のコラムに寄稿することにした。

僕はこれまで新聞雑誌にも結構記事を書いてきたが、10年以上も連載を続けているケースなど、ほかにはない。つまり僕とその新聞は、まあまあ強い信頼関係にある、と僕は考えている。

それにも関わらずその短い記事は、連載開始以来はじめてボツという憂き目を見た。記事は次のような内容だった:

ハゲとオッパイ

ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である。
 つまり、男は女のせいでハゲを気にし、女は男のせいでオッパイの大小を気にする。
 僕は男だから100%分かるのだけれども、もしもこの世の中に男しかいなかったなら、男の誰もハゲなんか気にしない。自分のハゲも他人のハゲも。
 たとえば僕は男オンリーの世界でなら、僕の周りの男どもが全員ハゲで、かつ自分が彼らの百倍ハゲていたとしても、まったく気にならないと断言できる。
 世の中の女性が男のハゲを笑い、男のハゲを気にするから、僕ら哀れな男どもはハゲに強烈な恐怖心を抱いている。
 それと同じことがもしかすると女性の側にも言えるのではないか。
 つまり、女性は世の中の男どもが巨乳とかボインとか爆乳とか面白おかしく話題にするから、自分のオッパイの大きさを気にするのではないだろうか。
 もしもこの世の中に女しかいなかったら、自分の胸や他人の胸のデコボコが高いか低いかなんて、全然気にならないのではないか。ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である、とはそういう意味である。
 ところで、男のハゲを気にするのは日本人女性が圧倒的に多い。ここイタリアを含む西洋の女性たちは、男性のハゲをあまり気にしない。
 大人の感覚とも言えるが、欧米人男性が元々毛深くてハゲが多いせいもあるのだろうと思う。女性が男のハゲに寛大だから、西洋の男どもは日本人男性ほどにはハゲを悩みにしていない。
 そんな訳でヤマトナデシコの皆さん、あんまりハゲ、ハゲと僕ら哀れな男どもを笑うのをやめてくれませんか?


記事が掲載拒否になった理由は、ハゲは不快用語で、オッパイという言葉も新聞では使いにくい、というものだった。

ところが実は、まさにハゲが不快用語だからこそ、ハゲである僕はそれを問題にした。つまりハゲと言う言葉に恐怖心を抱いている(不快感をもっている)僕は、その言葉が無神経に流布している現実への密かな抗議と、また自己防衛の思惑からそのコラムを書いた。他人にハゲと言われる前に自分で言ってしまえ、というあの心理ですね。

ところが新聞はそこのところを全く無視して、ハゲと言う言葉には読者が不快感を抱きかねないので掲載できない。またオッパイの大小も個性の問題なのであり、これも読者が反発しかねない、という奇妙な論理でボツにした。

ハゲと言う言葉に不快感を持つ読者とは、つまり「ハゲている読者」のことであり、それらの読者は僕の同志である。彼らこそまさに、僕のこのコラムを読みたい人々のはずなのだ。それなのに新聞は、一歩間違えば偽善的とさえ言われかねない自らの考えに固執して、そのことに気づかないように見える。

またオッパイの大小が女性の個性の一つだというのは、まさにその通りである。ところが世の中の男どもは、その個性を個性として認めようとはせず、ま、いわば劣情に曇った目で女性の胸を見て、あれこれ品定めをし辱(はずか)しめる。巨乳よ爆乳よ、とはやし立てるばかりではなく、その逆の大人しい胸を貧乳や壁やこ(小)っぱいと揶揄したりする。

そのことを指摘して、そんなものは男のたわ言であり身勝手な魂胆なのだから、無視して堂々としていた方が良い、というのが最終的には僕の言いたいところである。その趣旨は僕の短い文章の中に十分に示唆されていると考える。もしもそうでないのなら、それは僕の文章力の拙さが第一の原因である。が、同時にもしかすると、新聞人のあり余るほどの自信がその目を曇らせている、ということもあり得るのではないか。従軍慰安婦VS朝日新聞の例もあることだし・・