例年2月頃、ここイタリアではサンレモ音楽祭やベニスカーニバルが開催される。両者ともその年によって日にちが多少ずれるが、ほぼ今頃が旬の大きなイベントである。

僕はベニスカーニバルを、主にテレビ番組向けにずい分と取材をした。プライベートでも訪ねた。祭自体も面白いが、ベニスという街に深く惹かれていて、カーニバルにかこつけては出かけてきたのだ。

サンレモ音楽祭は実際に見たことはない。ニューヨークの後にイタリアに移り住んで以来、同音楽祭を取材したいと思わないでもなかったが、企画書を書いた覚えがない。

テレビ番組を作るときは、自らで企画を書いてテレビ局や制作会社に売り込み、金を出してもらう。彼らが取材をしてくれと依頼してくることもあるが、僕の場合はほぼ9割程度が自分で企画を出す。

企画を出すとは、アイデアを具体的な形にして、且つ文章にしたためて金づるに提示するということである。つまり、アイデアを売るのだ。面白くなければ相手は間違っても金を出さない。だから必死だ。

サンレモ音楽祭には、テレビ屋の僕が必死になるだけの魅力がなかった。いや、60年以上も続いている音楽の祭典だ。魅力がないわけがない。僕が魅力を見出せなかったのだ。

魅力を感じなければ企画書など書けない。ドキュメンタリー監督とは番組の第一番目の視聴者のことである。視聴者は番組が面白くなければ見ない。言葉を変えれば、視聴者である監督は、自分が面白いと感じなければ決して企画書など書けない。

サンレモ音楽祭を面白いと思えなかった僕は企画書が書けず、また書く気もなく長い時間が過ぎた。サンレモ音楽祭を面白くないと感じるのは、昔その祭典の中継生放送を見てうんざりしたことが原因。

およそ4時間も続く歌の祭典は、似たような歌がえんえんと続く印象で、僕にはほとんど苦痛だった。しかもそれは、番組が1日で終わる例えば紅白歌合戦などとは違って、普通の場合5日間も続くのである。

カンツォーネといえば響きがいいが、要するにそれはイタリアの演歌のことである。僕は演歌も好きだが、中には陳腐な歌詞やメロディーがうっとうしいものも多い。カンツォーネもまさにそうだ。

似たような節回しや思い入れやメロディーが、陳腐な言葉とともに繰り出される状況は、好きな人にはたまらく嬉しいのだろうが、僕にはつらい。

カンツオーネが嫌い、ということではない。演歌同様に僕が好きなカンツオーネは多くある。傑作とはとても思えない歌を次々に聞かされるのが、陳腐な演歌のオンパレードに接しているみたいで疲れるのである。

これではいけないと思って、実は今年は、音楽祭のテレビ中継を全部見てやろうと気合を込め、番組初日の2月10日にテレビ桟敷に陣取った。でも最初の30分ほどでやはり挫けて投げ出した。

セットや雰囲気や構成は素晴らしいのだが、肝心の歌のコーナーでは僕はやっぱり退屈した。感動のない歌ばかりだった。でもいい歌は必ずあるのだ。だって優勝曲を筆頭に、これはという歌が毎年現れる。そこに行き着くまでが長過ぎるのである。

そこで優勝曲が決まる最終日の14日を頑張って見よう、と待ち構えていたのだがすっかり忘れた。後で知った優勝曲はやはりそれなりに面白かった。決勝戦を見るべきだったと後悔したが、もう後の祭りである。

そんな具合に僕の独断と偏見によって、サンレモ音楽祭はテレビ屋としての僕の興味の枠外に置かれてしまい、長時間のドキュメンタリーどころか短い報道番組にさえならなかった。

が、先のことはもちろん誰にも分からない。