今日4月5日はキリスト教の「復活祭」である。イタリア語ではパスクア。英語のイースター。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭。

キリスト教の祭典としては、その賑やかさと、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味で恐らくクリスマスが最大のものだろう。が、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

なぜならクリスマスはイエス・キリストの誕生を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが、「死から甦る」奇跡を讃える日だからだ。

誕生は生あるものの誰にでも訪れた奇跡である。が、「死からの再生」という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かに関わらず、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した、とも言える。キリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭・イースターなのである。

復活祭のメインの催しは、キリストが十字架を背負って刑場のゴルゴタの丘まで歩いた「via crucis(悲痛の道)」をなぞって、信者が当時の服装を身にまとって各地を練り歩くイベント。

同時に各家庭では復活祭特有のご馳走の嵐が吹き荒れる。中でも特徴的なのは、生まれたての子ヤギの肉を使ったカプレット料理。それにはグルメの国・イタリアの膳らしくヤギ独特の臭いが無く、且つ口にいれると柔らかく舌にからんでとても上品な味がする。

復活祭になぜヤギ料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」だとみなされることから、復活祭に子 ヒツジを食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。子ヒツジの肉はやがてそれに似た子ヤギの肉にも広がっていった。

子やぎは癒し系の愛くるしい生き物である。よちよちと近寄ってきたり、無防備に人に体を預けたり、触れられても嫌がったりしないことが多い。目元も顔つきも姿の全体も実にかわいい。

そのせいかどうか、子ヤギ料理は日本では全く人気がない。ヤギ肉を食する習慣がある南の島の、粗大ゴミかと見紛うゴリ顔の男でさえ、イタリアの子ヤギ料理の話をすると皆一様に「????」という表情になって、挙句には「かわいそー」などとのたまう。

だがそれを言えば、子牛の肉や若鶏のから揚げや卵や小魚やいくらなども食べるのは言語道断、「かわいそー」ということになりかねない。食材としての動物は、悲しいことに幼いものほど美味という傾向もある。

人間が生きるとは殺すことだ。人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者の人々でさえ、植物という生物を殺して食べていることに変りはない。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は仕方のないことだ。も しもそれが悪であり犯罪であるなら、われわれ人間は一人残らず悪人であり罪人である。

乳飲み子でさえそうだ。なぜなら赤子は、生物を食べて生きる母親が与える母乳を頼りに生存している。従って、何かを殺して食べること自体を否定したり非難したりするのは無意味である。子ヤギとてその例にもれない

だが、人間とはまた強欲な存在でもある。ゼイタクのためにも人は生き物を殺す。たとえば究極のグルメとは、親牛の子宮に手を突っ込んで胎子を引っ張り出して、これを料理して食らう、というものである。それは実際に行われてきたことであり、今でも行われていると言われる。

子宮に手を突っ込んで胎子を引っ張り出す、というのは恐らく秘密を守るグルメたちの偽悪の装いか、それらの人々を憎む者たちの陰口だろう。実際には母牛を 屠刹して、胎子を取り出して料理するのではないか。胎子を食らうために母牛までも犠牲にする図は、彼らが自らの「裕福また成金振り」に自己満足を覚えたり、あるいはそれを喧伝したりするには格好の材料 だ。

そうした行為は糾弾されても仕方のないことだ。が、強欲も人間存在の重大な一構成要素だと認めれば、おのずと見えるものが違ってくる。つまり、そうした行為を容認するのは政治的正邪(ポリティカル・コレクトネス)に照らし合わせれば、邪である。だが人間を業に捉われた存在として見れば、なんら奇怪なことではない。

人間から業を取り去れば清浄無垢な何ものかが立ち現れるのだろう。だが、そんな存在はもう人間ではない。神に近い何ものかであり、人間の対極にあるものである。つまり理想という名の虚偽だ。

人間の良さは、業に縛られた存在である己を知り、己の罪深さを見つめて、それから少しでも解放されようと業にまみれて呻吟することである。

理想は実現できないからこそ理想なのである。あるいは実現することが限りなく不可能に近い難事だからこそ、理想なのである。従って理想に向かって懊悩する「プロセスそのもの」が、つまりは理想的な生き方ということなのではないか。

子ヤギといういたいけな生き物を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子ヤギを慈しむ心とそれを食肉処理して食らう性癖の間には何らの齟齬もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕は一年に一度、イタリアにいる限りはイースターの子ヤギ料理を食べると決めた。

その罪と快楽の一部を示すURLを次に貼り付けて、食材となる子ヤギたちに深く感謝をしたい。

子ヤギレシピ⇒ https://www.google.co.jp/search?q=capretto+ricetta&hl=ja& amp;source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=H9UeVa_xN42p7Abi44CIBA&ved=0CAgQ_AUoAQ&biw=1152&bih=586
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