僕はキリスト教徒ではない。信仰心が厚い人間でもない。それどころか、あらゆる宗教を「イワシの頭」と規定して受け入れ、尊重し恭敬する者である。従って 信心深いある種の人々にとっては僕は無神論者であり、しかも同時に僕自身も、自らをそのように規定することさえ憚らない人間である。
それなのに僕は先日、「イスラム国」が後藤健二さんの首にナイフを突き付けて殺害する忌まわしい映像を目の当たりにした時、魂が崩れ落ちるのでもあるかのような深い悲しみと、心髄の慟哭の中でひたすら次の言葉を思っていた。
「主よ彼らを赦(ゆる)せ。彼らは自分たちが何をしているかを知らないのだから・・」
それはイエス・キリストが十字架上で死に行きながら、薄れゆく意識の中で今まさに自分を殺している者らを赦してほしい、と神に祈る言葉である。僕は「イス ラム国」の象徴であるおぞましい死刑執行人「*斬首魔ジョン」の動きを凝視しながら、その言葉を本当に繰り返し思ったのだ。
僕がその言葉を脳裏に浮かべたのは、断じて「イスラム国」を赦す気持ちからではない。それどころか、その時の僕の心中には「イスラム国」への憎悪と怨みと、今思い返せば恐らく「殺意」にも似た報復感情が、ふつふつと湧き起こり逆巻いていた、と告白しなければならない。
同時に僕は、人間の所業とは思えない彼らの行為がにわかには信じられず、彼らは自分たちが一体何をしているかを理解しないまま、行為に及んでいるに違いないと考えた。それはイエスの言葉の記憶からの連想だったが、たとえそうではなくとも、画面に映っている光景は、そんな風にでも考えなければ理解不可能な凄惨な図だった。
僕の思惑は、イエス・キリストの赦しの心とは違う精神作用から来るものだった。しかし今にして思えば、彼らのむごたらしい行為を「人間以前の心を持つ者だけが成せる仕業」とみなして、怒りの矛を収める心理があるいはそのとき既に働いていたのかもしれない。
ひとことで言えば彼らは野蛮な未開人なのであり、人間が同じ人間に対して残虐な行為を働いて憚らなかった時代の、険しい精神のままに生きている者どもである。自らが一体何をしているかがわからない者とは又、暴力の理不尽とおぞましさが分からない狂気に支配された者でもある。
人間以下の心性しか持たない人間に怒りをぶつけても仕方がない・・イエス・キリストの赦しの心とは似ても似つかないが、僕はそうやって「イスラム国」の信じ難い行為を何とかして理解しようと、無意識のうちに心中で葛藤していたのだ、と今になってまた思う。
しかし、そのときの僕には「イスラム国」を赦す心の余裕など微塵もなかった。それどころか彼らは殲滅されるべきだと考え、今もそう思っている。
僕のその赦さない心は、実は「イスラム国」の悪意と復讐心に満ちた心と何も変わらない。彼らの胸中深くにあるのは、「目には目を、歯には歯を~」という同害報復思想に拠るキリスト教と西洋文明への恨みだ。つまり彼らの中にあるのも僕と同じ赦さない心なのである。
憎しみには憎しみを、という復讐の連鎖を断ち切って「ひたすら赦せ」と説いたのがイエス・キリストである。そして「イスラム国」を真に根絶できるのは実は、キリストが唱道したその絶対の「赦し」だけである。その理由を次に書く。
2015年1月20日、「イスラム国」は日本人人質の後藤さんと湯川さんを跪かせた状態で2人の殺害を予告し、「*斬首魔ジョン」は、組織を代表して こう宣言した。
彼はっきりと「安倍首相は我々の女性と子供たちを殺すために2億ドルを提供した」と明言したのだ。つまり彼らと違う立場から見れば「抹殺されるべき悪魔の集団 」である「イスラム国」の男たちにも、守るべき妻や母や姉妹や娘たちがいる。そして何よりも子供たちがいる。つまり家族がある・・それが生の実相だ。
「イスラム国」の組織を殲滅するとは、彼らが守ろうとしている家庭も同時に破壊するということだ。そして破壊された後の瓦礫の荒野には、彼らの子供たちと女性たちと彼らの慰安者たちが残る。彼らの思想も残る。そして残されたそれらの総体とは、つまり、飽くなき憎しみである。
彼らの憎しみは父や夫や兄を殺した敵への復讐心となって燃え盛り、連綿と受け継がれて行く。憎悪は新たな憎悪しか生まない。それを知っていたからこそイエス・キリストは、敵を赦せ、憎しみを破棄しろ、と自らの命を捨ててまで説いた。
ただひたすらに赦すことだけが、「イスラム国」を静かに、真に消滅させ得る唯一の手段なのである。
赦(ゆる)す心が「イスラム国」を破壊する~先ず彼らを潰せ。そして赦せ~ につづく
それなのに僕は先日、「イスラム国」が後藤健二さんの首にナイフを突き付けて殺害する忌まわしい映像を目の当たりにした時、魂が崩れ落ちるのでもあるかのような深い悲しみと、心髄の慟哭の中でひたすら次の言葉を思っていた。
「主よ彼らを赦(ゆる)せ。彼らは自分たちが何をしているかを知らないのだから・・」
それはイエス・キリストが十字架上で死に行きながら、薄れゆく意識の中で今まさに自分を殺している者らを赦してほしい、と神に祈る言葉である。僕は「イス ラム国」の象徴であるおぞましい死刑執行人「*斬首魔ジョン」の動きを凝視しながら、その言葉を本当に繰り返し思ったのだ。
僕がその言葉を脳裏に浮かべたのは、断じて「イスラム国」を赦す気持ちからではない。それどころか、その時の僕の心中には「イスラム国」への憎悪と怨みと、今思い返せば恐らく「殺意」にも似た報復感情が、ふつふつと湧き起こり逆巻いていた、と告白しなければならない。
同時に僕は、人間の所業とは思えない彼らの行為がにわかには信じられず、彼らは自分たちが一体何をしているかを理解しないまま、行為に及んでいるに違いないと考えた。それはイエスの言葉の記憶からの連想だったが、たとえそうではなくとも、画面に映っている光景は、そんな風にでも考えなければ理解不可能な凄惨な図だった。
僕の思惑は、イエス・キリストの赦しの心とは違う精神作用から来るものだった。しかし今にして思えば、彼らのむごたらしい行為を「人間以前の心を持つ者だけが成せる仕業」とみなして、怒りの矛を収める心理があるいはそのとき既に働いていたのかもしれない。
ひとことで言えば彼らは野蛮な未開人なのであり、人間が同じ人間に対して残虐な行為を働いて憚らなかった時代の、険しい精神のままに生きている者どもである。自らが一体何をしているかがわからない者とは又、暴力の理不尽とおぞましさが分からない狂気に支配された者でもある。
人間以下の心性しか持たない人間に怒りをぶつけても仕方がない・・イエス・キリストの赦しの心とは似ても似つかないが、僕はそうやって「イスラム国」の信じ難い行為を何とかして理解しようと、無意識のうちに心中で葛藤していたのだ、と今になってまた思う。
しかし、そのときの僕には「イスラム国」を赦す心の余裕など微塵もなかった。それどころか彼らは殲滅されるべきだと考え、今もそう思っている。
僕のその赦さない心は、実は「イスラム国」の悪意と復讐心に満ちた心と何も変わらない。彼らの胸中深くにあるのは、「目には目を、歯には歯を~」という同害報復思想に拠るキリスト教と西洋文明への恨みだ。つまり彼らの中にあるのも僕と同じ赦さない心なのである。
憎しみには憎しみを、という復讐の連鎖を断ち切って「ひたすら赦せ」と説いたのがイエス・キリストである。そして「イスラム国」を真に根絶できるのは実は、キリストが唱道したその絶対の「赦し」だけである。その理由を次に書く。
2015年1月20日、「イスラム国」は日本人人質の後藤さんと湯川さんを跪かせた状態で2人の殺害を予告し、「*斬首魔ジョン」は、組織を代表して こう宣言した。
“日本国の首相よ
お前は「イスラム国」から8500キロ以上離れた場所にいながら、自ら進んで(対「イスラム国」の)十字軍への参加を志願した。お前は我々の女性と子供たちを殺し、イスラム教徒の家々を破壊す るために、2億ドルを得意げに提供したのだ~”
彼はっきりと「安倍首相は我々の女性と子供たちを殺すために2億ドルを提供した」と明言したのだ。つまり彼らと違う立場から見れば「抹殺されるべき悪魔の集団 」である「イスラム国」の男たちにも、守るべき妻や母や姉妹や娘たちがいる。そして何よりも子供たちがいる。つまり家族がある・・それが生の実相だ。
「イスラム国」の組織を殲滅するとは、彼らが守ろうとしている家庭も同時に破壊するということだ。そして破壊された後の瓦礫の荒野には、彼らの子供たちと女性たちと彼らの慰安者たちが残る。彼らの思想も残る。そして残されたそれらの総体とは、つまり、飽くなき憎しみである。
彼らの憎しみは父や夫や兄を殺した敵への復讐心となって燃え盛り、連綿と受け継がれて行く。憎悪は新たな憎悪しか生まない。それを知っていたからこそイエス・キリストは、敵を赦せ、憎しみを破棄しろ、と自らの命を捨ててまで説いた。
ただひたすらに赦すことだけが、「イスラム国」を静かに、真に消滅させ得る唯一の手段なのである。
*「斬首魔ジョン」
(「イスラム国」のビデオ映像に登場する黒覆面の首切り屋をメディアは「聖戦士ジョン」と呼んでいる。これは報道においては私意や偏向を避ける目的で、報道対 象の自称をそのまま使う、という原則によっている。英語のジハディスト(Jihadist)・ジョンを聖戦士と訳しているのだ。し かし、僕のこの文章は報道記事ではない。僕の意見開陳の作文である。だから僕はおぞましい殺人者ジョンを、僕の感覚で斬首魔ジョン、あるいは首切り魔ジョ ンと規定し、そう呼称する)
赦(ゆる)す心が「イスラム国」を破壊する~先ず彼らを潰せ。そして赦せ~ につづく