スペイン、アンダルシアにいる。
先月、イタリアを発つ前に投稿予約をしておいたブログ記事「ミラノ万博が悩ましい」が、うまく自動投稿されているかどうかインターネットカフェで確認。
無事に投稿されていた。ちょっと嬉しい。
今後はこの機能も使うことにしよう。
インターネットカフェを通して、日本語環境のPCも利用できることが分かり、この記事を書いてみる。
さらに書けるなら、再び予約投稿用の話も。
ここアンダルシアではアラブ・ムスリム時代の痕跡を訪ね歩いている。
アラブのアンダルシア支配はおよそ800年にも渡った。
結果、多くの文化遺産が残された。
それらの圧倒的な美と過ぎ去った時間に深い感慨を覚える。
過ぎ去った時間への感慨とは、かつて高度な文明を謳歌したイスラム教徒たちが、今日では沈滞し、時には後退し、内戦や貧困や暗い社会不安の中で呻吟している現実の不思議また必然。
それはいつも思ってきたことであり、地中海周遊を決意した理由の一つでもある。
だが、今回はそこに過激派「イスラム国」へのこだわり大きくのしかかっている。
そこに考えを巡らせ続けながら、太陽海岸(costa del sol)で中休み。
宿を取った海の町でインターネットカフェを見つけたのである。
アンダルシアの内陸部では、殴りつけられるような日差しに圧倒された。
特にコルドバの街中で。
午後7時過ぎのその強烈な陽光を浴びて歩きながら、5月でこんなありさまなら7月、8月の盛夏時には一体どうなるのだろうと、恐怖感さえ覚えた。
コルドバの暑熱にはそれほどのインパクトがあった。
太陽海岸の日差しも強烈だ。しかし、内陸のコルドバほどの力はない。
ビーチパラソルの下の寝椅子に横たわって、読書をしている分にはむしろ爽快だ。
それでも暑熱に犯される。
そのときはひと泳ぎしてして涼しくなって、またパラソルの下で読書をする至福の時間を取り戻す。
ビーチで怠惰な時間を過ごすときには小説が一番嬉しい。
実話ドキュメント系の著作や情報本は、カバンに入れていてもまず手が出ない。
ビーチの光の中で想像力を飛翔させて遊ぶにはやはり虚構話が最適だ。
そこでの想像力は、正確には著者のものだから、読む方はその想像力に寄り添って共にあそぶということだが、そんな場合は実利を追うような内容の本はつまらない。
そうした本は仕事場兼の書斎で読む。
最近はインターネットでの検索読み込みもあって、小説世界で遊ぶ時間がだいぶ少なくなった。
だから、ビーチでの読者が余計に楽しい。
ここ最近は、そうした折に読む本は時代小説が多くなった。
たいていは司馬遼太郎と藤沢周平。
ときどき山本周五郎も、という風である。
多くの本好きな若者がそうであるように、僕も若いころには小説書きになりたいと思うこともあった。
ずいぶん多くの小説も読んだ。
だが、そのほとんどは最早もう一度読みたいと思わせる魅力を持たない。
若い時分にはあれほど熱中したのが嘘かと思えるほどに心が冷めているのが大半である。
特に、いわゆる純文学系の作品にはまったくと言って良いほど興味が湧かない。
2度も3度も読み返したくなるのが、僕の場合は前述の3作家なのである。
特に藤沢周平。
ここスペインのビーチで読んでいるのは「回天の門」。藤沢本の数少ない読み残しの一冊。
日本の奇跡、明治維新前夜の世情を描いている。
世界史には多くの奇跡が刻印された。
アラブのスペイン支配も奇跡であり、キリスト教徒によるスペイン奪還(レコンキスタ)も奇跡である。
この奇跡とはもちろん宗教的な意味ではない。瞠目すべき出来事、の意である。
明治維新は東洋の島国で起こった歴史事件だが、アラブ対スペイン、さらには「イスラム国」の台頭とそれにまつわる事変にも匹敵する瞠目である。
そういうことを考えながら、アンダルシアの青い空の下で濃い時間を過ごしている。