梅雨でじめじめしている日本の感覚からはほど遠いだろうが、6月のイタリアは1年でもっとも美しい季節である。

もっと言えばヨーロッパが1番輝く季節である。

薔薇をはじめとする花々が咲き乱れ、木々の緑が増し、日差しが長くなって生きとし生けるものが目一杯に生を謳歌する。

それが6月である。

結婚また花嫁を讃える「ジューン・ブライド」という言葉もある。

ジューンは6月。ブライドは花嫁である。

「ジューン・ブライド」とは「6月の花嫁は幸せになる」という意味のこもる英語。

元々はギリシャ神話から出た古代ローマ神話のうちの、結婚の女神「JUNO(ユノーまたはジュノー)」に由来する。

6月はまたヨーロッパの大半の地域で、温室栽培ではない(つまり露地栽培の)果物や野菜が出回る季節のはじめでもある。

いや、それらは4月また5月頃から行き渡るのだが、本格的に、豊かに、途切れることなく市場に充満するはじめが6月なのである。

それは8月を越えて9月まで続き、10月になっても名残をとどめる。

それ以後は、温室栽培の品々の独壇場。つまり「季節はずれ」の野菜や果物が圧倒的に多くなる。

それらの野菜や果物はありがたくまたおいしくもあるが、ある日ふと季節はずれの不自然に気づいて、立ち止まることもないではないプロダクトたち。

そんなヨーロッパの、6月半ば現在のイタリアには、多くの旬の野菜や果物が流通している。

そのうちの一つが日本でベラボーに値段の高いサクランボである。

値の張るサクランボを食べるたびに思うことがある。

つまり、値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないだろうか、と。

例えば僕は今が盛りのサクランボが大好きだが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れない。だが僕は明らかにイタリアのものがおいしいと感じる。

それはなぜか。

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからである。

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、僕は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのだ。

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

僕は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがある。

しかし、これはいいことばかりとは限らない。

というのも僕は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

このように、何事につけ国際化というものは良し悪しなのである。