思い上がり
百田尚樹氏が「沖縄の新聞をつぶすべき」と発言して問題になっている。氏は冗談だったと釈明し、後で「やっぱり本気でつぶすべき」と言ったそうだが、思い 直した言い訳であることが見え見えの分、そちらの方がもっとずっとジョークに聞こえる。それはジョークだから何かと大騒ぎをするべき事案ではないのかもしれない。彼のそのジョークよりも重いのは国会議員らが発したという「マスコミを懲らしめろ」論だ。
しかし、百田氏の失言(?)を冗談として受け流しつつ、僕はまたこうも考えている。人は考えないことはジョークにしない。それがジョークであろうがなかろうが、頭の中にその考えが浮かばなければ言葉にはならない。つまり彼が発した言葉は必ず彼が頭の中で考えていることである。今回の発言の経緯と内容を見た場合、その考えの中身と、中身が形成された背景は重要なことである。従ってそれは検証に値する。そこで、検証してここに意見を書いておくことにした。
百田氏の発言には今の日本国の世論や政治や空気の様相が色濃く染み出しているように見える。勉強会の議員の「広告を無くしてマスコミを懲らしめろ」発言も同様だ。強権的ともいえる安倍政権の周囲にいる彼らが「われわれには言論弾圧をする力もある」と、頭のどこかで思っている本音がポロリと口をついて出たものだろう。
彼らの言動は、彼らがそれを意識したかどうかに関わりなく、世界が長い時間と多くの犠牲を払って獲得し、定着させようと日々呻吟している表現の自由の理念に挑み、それを阻もうとする意図が秘匿されたものだと断定されても仕方がない。思い上がりもここに極まれり、というところである。おいそれと見逃すわけにはいかない、というのが正直な感想だ。
表現の自由の全き自由と不自由と
表現の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば表現の自由の原理原則とは、言論等の表現に一切のタガをはめないこと、それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず頑々として認めることである。
言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そうやって「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコクナチズムなどもどんどん表に出てくる。
そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や支持論や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の程度が明らかになるのである。百田氏と勉強会の議員の言論に対して議論百出しているのは、今まさにそれが行われているからである。それは何を意味しているのかというと、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。
言葉を換えれば、表現の自由には限界がある、ということだ。「表現の自由の限界」は、表現の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。表現の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 一言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが表現の自由の限界であり、それは「表現する者の責任」と同義語である。
議論対議論
たとえば百田氏のケースでは、彼が「沖縄の2紙はつぶすべき」と発言したのは、表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身について今僕がこうして批判的な文章を書いているのと同様に、多くの人々も彼の発言に疑念を投げかけている。同時に氏の発言の中身を正当と捉え支持 し、擁護する人々もまたいる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。
それらの言い合いは、百田氏が彼への批判に反論する言葉も含めて、全て表現の自由の行使である。それは歓迎するべきことだ。議論が深まることによって、表 現の自由が興隆し、その議論の高まりの中で表現の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。
罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に 利用して意見を述べる。そのプロセスの中で表現の自由に対する規制が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。その規制を法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。
糾弾される理由
民間人である百田氏は、表現の自由の権利を行使して何でも言う自由がある。従って沖縄の2紙をつぶせと言おうが、皆でぜひ購読しようと主張しようが彼の勝手だ。勉強会の議員の発言も、何でも言って良いという表現の自由の原理原則の前ではそうだ。それにもかかわらずに彼らが批判されなければならないのはなぜか。それは言うまでもなく、彼らが権力者だからである。
日本国憲法に定められた表現の自由とは、国民が政府を批判する自由を含む「国民の表現の自由」のことである。国家は国民のその表現の自由を守らなければならない。憲法が国家権力を縛るとはそういうことである。安倍政権にぴたり と寄り添っている勉強会の議員らは国家権力の一角を成す権力者である。権力者だから、彼らのマスコミ懲らしめ論は威圧となって当事者に重くのしかかる。言論弾圧と同じ効果がある。だから彼らは指弾されなければならない。なぜなら彼らには国民の表現の自由を守る「義務」があるからである。彼らの言動は本末転倒なのだ。
今回の場合、百田氏もそれらの権力者と共にいる同じ穴のムジナ、のようなものだから糾弾されても仕方がない。というか、糾弾されるべきである。同時に彼は民間人なのだから、言論の自由によって擁護されるべき存在でもある。だから百田氏擁護論がそこかしこから出ている風潮は健全なことだ。しかし、勉強会の議員らの場合は、彼らが権力者である事実から100%アウト。ひたすら論難の対象になるばかりであり、また論難しなければならない。。
話が飛ぶようだが、実は彼らの言動は、今年1月に起きたフランスの言論弾圧事件、つまりイスラム過激派がムハンマドへの皮肉が気に食わないからと、自動小銃でシャルリー・エブドの表現者を射殺した事件をさえ連想させる重大事である。気に食わないからと銃撃することと、気に食わないからと権力でつぶしたり懲らしめたりすることの間にはいささかの距離もない。彼らはもちろん脅しを実行してはいない。が、事の本質は同じなのである。
もっと言えば、例えばネトウヨと呼ばれる人々は安倍政権を支持する者がほとんどだと思うが、権力が勢いに乗って言論統制まで行くと、彼らネトウヨの“罵詈雑言を言う自由”も必ず弾圧される。なぜなら彼らの罵詈雑言が「自由な言論」だからだ。権力による言論弾圧とはそういうものである。しかし、もしも一般の人々が、他人を誹謗中傷する書き込みやメーッセージに反論をし圧力をかけても、それは言論弾圧ではない。それは言論の自由に守られた市民が、言論の自由の権利を行使して、同じく言論の自由に守られたネトウヨの言論を社会悪と見なしてこれを排除しようとする、極めて健全な行為なのである。
その過程で世論は行き過ぎて、ある個人や団体や事案を叩き過ぎる状況も起こりうる。しかし、言論の自由が保証されている限り、、そのことに対する反論や指摘や擁護をする「自由な言論」がまた必ず起こって、行き過ぎは修正される。それが言論の自由を守る社会の意義であり最大の良さだ。
沖縄保守新聞を読みたい
最後に、百田氏が沖縄の地元紙が左翼に偏向していると考えるなら、「つぶさなくてはいけない」などと物騒なことを言う前に、トモダチのネトウヨ議員の皆さんや安倍さんなどと組んで、保守主義を標榜する「中立公正」な新聞を彼の地で発行したらどうだろうか。
沖縄では地元2紙が圧倒的なシェアを誇っていて、全国紙はほとんど読まれていないという。そのあたりも2紙が偏向していると批判される原因の一つだろうが、全国紙が沖縄で読まれない、つまり売れないのは、それが面白くないから、ということもあるのではないか。
地方紙の価値はひたすら地元に寄り添うところにこそある。沖縄地元で売れている新聞は地元の感覚では面白い、少なくとも「つまらなくない」ということだ。 右や左というイデオロギーが支持されているからではなく、地元にとってもっとも関心のあるニュースや情報が受けているだけの話だろう。つまり沖縄の新 聞が世論をリードしているのではなく、沖縄の世論に引きずられる形で新聞が存在している、というのがより現実に近いのではないか。
新聞はもちろん世論をリードすることもある。新聞が報道を続けるので、大衆がその意志に引きずられる可能性もある、というのもまた真実だ。だがそれが全てだと考えるのは笑止だ。先ず新聞ありき、ではなく人々の要望を体現して新聞が生まれるのだ。従って新聞は人々の民度レベルに即してしか存在できない。これは新聞に限らずあらゆるメディアがそうであり、一国の政府もまったく同じだ。もしも政府やメ ディアがバカならば、それは国民がバカだからである。
バカでもなく偏向もしていない百田氏と仲間の皆さんが発行する沖縄保守新聞を、僕は本気で、ぜひ読んでみ たい、と思う 。ただし、あえて確認しておくが、沖縄「右翼」新聞ではなく、あくまでも沖縄「保守」新聞である。
百田尚樹氏が「沖縄の新聞をつぶすべき」と発言して問題になっている。氏は冗談だったと釈明し、後で「やっぱり本気でつぶすべき」と言ったそうだが、思い 直した言い訳であることが見え見えの分、そちらの方がもっとずっとジョークに聞こえる。それはジョークだから何かと大騒ぎをするべき事案ではないのかもしれない。彼のそのジョークよりも重いのは国会議員らが発したという「マスコミを懲らしめろ」論だ。
しかし、百田氏の失言(?)を冗談として受け流しつつ、僕はまたこうも考えている。人は考えないことはジョークにしない。それがジョークであろうがなかろうが、頭の中にその考えが浮かばなければ言葉にはならない。つまり彼が発した言葉は必ず彼が頭の中で考えていることである。今回の発言の経緯と内容を見た場合、その考えの中身と、中身が形成された背景は重要なことである。従ってそれは検証に値する。そこで、検証してここに意見を書いておくことにした。
百田氏の発言には今の日本国の世論や政治や空気の様相が色濃く染み出しているように見える。勉強会の議員の「広告を無くしてマスコミを懲らしめろ」発言も同様だ。強権的ともいえる安倍政権の周囲にいる彼らが「われわれには言論弾圧をする力もある」と、頭のどこかで思っている本音がポロリと口をついて出たものだろう。
彼らの言動は、彼らがそれを意識したかどうかに関わりなく、世界が長い時間と多くの犠牲を払って獲得し、定着させようと日々呻吟している表現の自由の理念に挑み、それを阻もうとする意図が秘匿されたものだと断定されても仕方がない。思い上がりもここに極まれり、というところである。おいそれと見逃すわけにはいかない、というのが正直な感想だ。
表現の自由の全き自由と不自由と
表現の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことである。言葉を換えれば表現の自由の原理原則とは、言論等の表現に一切のタガをはめないこと、それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず頑々として認めることである。
言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許される。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれない。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そうやって「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコクナチズムなどもどんどん表に出てくる。
そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や支持論や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の程度が明らかになるのである。百田氏と勉強会の議員の言論に対して議論百出しているのは、今まさにそれが行われているからである。それは何を意味しているのかというと、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということである。
言葉を換えれば、表現の自由には限界がある、ということだ。「表現の自由の限界」は、表現の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではない。表現の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものだ。 一言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが表現の自由の限界であり、それは「表現する者の責任」と同義語である。
議論対議論
たとえば百田氏のケースでは、彼が「沖縄の2紙はつぶすべき」と発言したのは、表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もない。しかし、その中身について今僕がこうして批判的な文章を書いているのと同様に、多くの人々も彼の発言に疑念を投げかけている。同時に氏の発言の中身を正当と捉え支持 し、擁護する人々もまたいる。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていく。
それらの言い合いは、百田氏が彼への批判に反論する言葉も含めて、全て表現の自由の行使である。それは歓迎するべきことだ。議論が深まることによって、表 現の自由が興隆し、その議論の高まりの中で表現の自由の「限界」もまた洗練されて行くのである。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。
罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に 利用して意見を述べる。そのプロセスの中で表現の自由に対する規制が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方である。その規制を法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになる。
糾弾される理由
民間人である百田氏は、表現の自由の権利を行使して何でも言う自由がある。従って沖縄の2紙をつぶせと言おうが、皆でぜひ購読しようと主張しようが彼の勝手だ。勉強会の議員の発言も、何でも言って良いという表現の自由の原理原則の前ではそうだ。それにもかかわらずに彼らが批判されなければならないのはなぜか。それは言うまでもなく、彼らが権力者だからである。
日本国憲法に定められた表現の自由とは、国民が政府を批判する自由を含む「国民の表現の自由」のことである。国家は国民のその表現の自由を守らなければならない。憲法が国家権力を縛るとはそういうことである。安倍政権にぴたり と寄り添っている勉強会の議員らは国家権力の一角を成す権力者である。権力者だから、彼らのマスコミ懲らしめ論は威圧となって当事者に重くのしかかる。言論弾圧と同じ効果がある。だから彼らは指弾されなければならない。なぜなら彼らには国民の表現の自由を守る「義務」があるからである。彼らの言動は本末転倒なのだ。
今回の場合、百田氏もそれらの権力者と共にいる同じ穴のムジナ、のようなものだから糾弾されても仕方がない。というか、糾弾されるべきである。同時に彼は民間人なのだから、言論の自由によって擁護されるべき存在でもある。だから百田氏擁護論がそこかしこから出ている風潮は健全なことだ。しかし、勉強会の議員らの場合は、彼らが権力者である事実から100%アウト。ひたすら論難の対象になるばかりであり、また論難しなければならない。。
話が飛ぶようだが、実は彼らの言動は、今年1月に起きたフランスの言論弾圧事件、つまりイスラム過激派がムハンマドへの皮肉が気に食わないからと、自動小銃でシャルリー・エブドの表現者を射殺した事件をさえ連想させる重大事である。気に食わないからと銃撃することと、気に食わないからと権力でつぶしたり懲らしめたりすることの間にはいささかの距離もない。彼らはもちろん脅しを実行してはいない。が、事の本質は同じなのである。
もっと言えば、例えばネトウヨと呼ばれる人々は安倍政権を支持する者がほとんどだと思うが、権力が勢いに乗って言論統制まで行くと、彼らネトウヨの“罵詈雑言を言う自由”も必ず弾圧される。なぜなら彼らの罵詈雑言が「自由な言論」だからだ。権力による言論弾圧とはそういうものである。しかし、もしも一般の人々が、他人を誹謗中傷する書き込みやメーッセージに反論をし圧力をかけても、それは言論弾圧ではない。それは言論の自由に守られた市民が、言論の自由の権利を行使して、同じく言論の自由に守られたネトウヨの言論を社会悪と見なしてこれを排除しようとする、極めて健全な行為なのである。
その過程で世論は行き過ぎて、ある個人や団体や事案を叩き過ぎる状況も起こりうる。しかし、言論の自由が保証されている限り、、そのことに対する反論や指摘や擁護をする「自由な言論」がまた必ず起こって、行き過ぎは修正される。それが言論の自由を守る社会の意義であり最大の良さだ。
沖縄保守新聞を読みたい
最後に、百田氏が沖縄の地元紙が左翼に偏向していると考えるなら、「つぶさなくてはいけない」などと物騒なことを言う前に、トモダチのネトウヨ議員の皆さんや安倍さんなどと組んで、保守主義を標榜する「中立公正」な新聞を彼の地で発行したらどうだろうか。
沖縄では地元2紙が圧倒的なシェアを誇っていて、全国紙はほとんど読まれていないという。そのあたりも2紙が偏向していると批判される原因の一つだろうが、全国紙が沖縄で読まれない、つまり売れないのは、それが面白くないから、ということもあるのではないか。
地方紙の価値はひたすら地元に寄り添うところにこそある。沖縄地元で売れている新聞は地元の感覚では面白い、少なくとも「つまらなくない」ということだ。 右や左というイデオロギーが支持されているからではなく、地元にとってもっとも関心のあるニュースや情報が受けているだけの話だろう。つまり沖縄の新 聞が世論をリードしているのではなく、沖縄の世論に引きずられる形で新聞が存在している、というのがより現実に近いのではないか。
新聞はもちろん世論をリードすることもある。新聞が報道を続けるので、大衆がその意志に引きずられる可能性もある、というのもまた真実だ。だがそれが全てだと考えるのは笑止だ。先ず新聞ありき、ではなく人々の要望を体現して新聞が生まれるのだ。従って新聞は人々の民度レベルに即してしか存在できない。これは新聞に限らずあらゆるメディアがそうであり、一国の政府もまったく同じだ。もしも政府やメ ディアがバカならば、それは国民がバカだからである。
バカでもなく偏向もしていない百田氏と仲間の皆さんが発行する沖縄保守新聞を、僕は本気で、ぜひ読んでみ たい、と思う 。ただし、あえて確認しておくが、沖縄「右翼」新聞ではなく、あくまでも沖縄「保守」新聞である。