14日に発表される予定の安倍首相の戦後70年談話は、当初の独りよがりで勇ましい内容のものから、侵略やおわびや反省という言葉を盛り込んだ内容になるのではないか、と推測されている。そうした言葉を入れるのは、戦争を防ぐ備えを造営していく心構えの一環として当たり前だと思う。またそれは唯我独尊思考をゴリ押しして、世界の顰蹙を買うよりもましなものだが、世論に押されて言葉を変えるだけの嘘ではないことを祈りたい。
安倍首相は、米国務省の東アジア統括国務次官補ラッセル氏が7月21日、
「日本が過去70年間に渡って、地域の平和や国際秩序、世界の経済や文化に貢献してきたりっぱな業績についても談話に盛り込んで欲しい」という言葉などにも意を強くして、過去への反省やおわびを軽視、あるいは無視したミーイズム盛りだくさんの談話を考えていた節がある。
だが国務次官補のラッセル氏は同じ文脈の中でまた、「戦後70年談話には
“侵略”や“おわび”に言及した 過去の首相のように、第2次世界大戦に対する日本政府や国民の思いと、それを実践してきた反省の気持ちが盛り込まれるべきだ」とも語っていたのだ。安倍首相はその部分を黙殺しようとしたのだろうか。もしそうならば、再び「姑息」と批判されても仕方がない。
安倍首相の戦後70年談話を巡っては、有識者会議が8月5日の報告書で“侵略”を明記し、8月10日に政権幹部が“おわび”に言及すると漏らすと、稲田朋美政調会長は逆に “おわび”はいらないとの考えを示した。続いて公明党の山口那津男代表が記者 会見で“侵略”や“おわび”の文言を盛り込んだ 歴代談話を踏襲するべきと再び釘を刺すなど、歴史認識がガタガタにぶれまくる国の醜態をさらし続けている。
安倍首相の戦後70年談話は、いうまでもなく村山政権の戦後50年、および小泉政権の戦後60年談話に続くものだが、そこの内容を踏まえるのは当然として、僕は今年1月に亡くなったドイツのヴァイツゼッカー元大統領の、戦後40年談話とも比較して見ていこうと考えている。
ドイツの良心という異名も持つヴァイツゼッカー元大統領は、数々の名演説で知られている。特に有名なのは「歴史を変えたり、なかったりすることはできない」「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる」という表現で、ドイツの戦争責任やホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と率直に向き合うよう国民に求めた、1985年5月8日の議会演説である。
戦後40年の節目に行われたその講話で、さらに元大統領は「非人間的な行為を記憶しようとしない者は再び同じ危険に陥る」「戦争が終わった5月8日は“敗戦の日”ではなく、ナチスの暴力支配からドイツ国民が自由になった“解放の日”である」とも断言した。僕はそれにちなんで、8月15日は“日本の敗戦の日”ではなく、軍国主義の暴力支配から日本国民が自由になった“解放の日”である、と言いたい。
戦後のドイツは、過去の清算と反省なしに国際社会への復帰はできず、近隣諸国との和解も遠かった。元大統領の熱い訴えがドイツ国民の良心を呼び覚まし、過去を直視して揺らがない道筋がつくられると同時に、世界中が感銘を受けてドイツを許した。そうやって戦後ドイツは、国際社会の信頼を回復し今日に至っている。
元大統領の戦後40年講話が極めて重要なのは、良く指摘されるように、「彼が誰も気づいていないことを言ったからではない。敗戦から40年が経ったその時点のドイツにおいてさえ、なお多くの国民が知りたくないと思っていたこと、だが国民が必ず知らなければならないまさに“そのこと”を語った」からである。
ドイツと似た過去を持つ日本。間もなく発表される安倍首相による戦後70年の談話。中身がやはり気になる。安倍首相は地元の山口県で12日、「日本はこの70年間、先の大戦に対する深い反省のもと平和を守り、アジアの繁栄のために力を尽くしてきた。平和国家としての日本の歩みは今後も変わらない」と強調し「日本は今後も勝ち得た信頼のもとに世界に貢献していかねばな らない」とも述べたという。
ところが安倍首相は、数々の極右的言動によって「日本が勝ち得た世界の信頼」を多く揺るがしてきた張本人でもある。また失礼ながら安倍さんとワイツゼッカーさんでは人間の器も違う。その結果、歴史認識まで違う。それでも、戦後40年でドイツ社会を一変させたワイツゼッカーさんにあやかって、安倍さんが日本国民と近隣諸国と世界を感銘させる立派な談話を発表し、国際社会から「歴史修正主義者」と規定されている自らの不徳を一蹴するよう腹から期待したい。