僕は前回の記事でイスラム教徒と「イスラム国」のテロリストはまったく違うものであり、これを混同してはならない、と書いた。そのことに異議を唱える者は いないと思う。ところが同時に、イスラム教の持つ極端な保守性が、「イスラム国」のテロリストと一般のイスラム教徒を同一のものに見せてしまうような事案 もひんぱんに起こる。次のようなことである。

先日(2015年8月)、中東ドバイのビーチに家族で遊びに来ていた20歳の娘が波に呑みこまれた。助けを求める叫びに応えて居合わせた救助員二人が海に飛び込も うとした。すると屈強な体格の娘の父親が彼らを力ずくで引き止めた。見ず知らずの男に触られたら娘が汚れる、そうなるくらいなら彼女は死んだほうがいい、 と暴力がらみで救助を拒み続け娘はついに溺れて死んだ。

イスラム教徒が起こす類似の事件は欧州でも頻発する。少し前にはここイタリアでパキスタン人移民の娘が父親に喉を掻き切られて殺害され、遺体を庭に埋めら れた。犯行動機は娘が父親の意向に背いて「西洋風」に自由に生きようとし、挙句に「キリスト教徒の」イタリア人若者と付き合っている、というものだった。父親の兄弟が共犯者になった。娘が西洋風に自由に生き、西洋人を恋人にまでしたのは、一族の名誉を汚す行為だからそれは名誉の殺人だと彼らは主張した。

そうした凶悪事件ばかりではなく、親が娘に暴力を振るったり、イタリア人の友人を作ることを禁止したり、親の決めた相手との結婚を強制したりという横暴が 次々に明るみに出ている。移民社会におけるそうした女性虐待の流れの一つで、イタリア国内だけで年間2000件程度の強制未成年者結婚が行われていると推 定されている。この場合の犠牲者も全て女性である。似たような事件は欧米のそこかしこで発生している。

犬が人に噛み付いてもニュースにはならないが、人が犬に噛み付けばニュースになる。異常な出来事だからだ。イスラム教徒によるそれらの事件は、人が犬に噛 み付くケースと同様の異変である。従ってそれらを持って全てのイスラム教徒が同じだと考えてはならない、というのは理想的なあるべき態度である。しかし現 実はそううまくは運ばない。

それらの異様な事件は、イスラム教徒と対立するキリスト教徒が多数を占める欧米社会に強い衝撃を与え、少数派のイスラム移民への偏見や差別を増幅させる。 そのことがひるがえって中東移民を主体とするイスラム社会の反発を招き、憎悪が憎悪を呼ぶ悪循環が繰り返される。結果、欧米で生まれ育ったイスラム教徒の 息子らが、シャルリー・エブド襲撃事件に代表されるテロを起こしたり中東のイスラム過激派に身を投じたりする。

欧米社会の良心ある人々は、一貫して中東移民との融和を唱えて行動してきたが、事態が悪化した現在はさらに危機感を覚えてイスラム社会との対話を強く模索 している。イスラム系移民への欧米側の偏見と差別は糾弾されて然るべきである。同時にイスラム系移民も自らが所属する欧米社会の文化を尊重し、郷に入らば 郷に従え、の精神で欧米社会に順応しようと懸命の努力をするべきだ、というのが欧州住民で且つ第三者的な立場にいる「日本からの移民」の僕が感じることである。

ドバイの事件もイタリアの事件も、根底にあるのは子供、特に女子を親の所有物でもあるかのように見なす時代錯誤な保守性である。それをほとんど未開性と呼 んでもかまわない。見知らぬ男に触れられた娘は傷物であり、従って売り物にならない、つまり嫁に行けない。それは一家の不名誉である。処女信仰も加わった イスラム特有の考え方は奇怪だが、実はそうした考え方や風習はその昔、ヨーロッパにもまた日本にもあったものだ。

今の日本では考えられないことだが、娘を物のように扱って遊郭に売り飛ばしたり、強制的に労働させたり結婚させたりしたのは、つい最近まで日本でも普通に あったことである。時期は違うものの西洋でも事情は同じだった。娘ばかりではない。かつて子供は男女とも親の所有物だった。少なくとも親の所有物に近い存 在だった。子供が生まれながらにして一個の独立した存在であり人格である、と認めそのように社会通念を変えていったのは欧米人の手柄である。

われわれ日本人はイスラム圏の人々よりも一歩早くその恩恵にあずかって、子供、特に女子を親の思いのままに扱う野蛮な文化を捨てた。しかし何百年も続いた 習わしはそう簡単には消えない。日本社会に根強く残る女性差別、男尊女卑の風はその名残である。そればかりではない。親が子供を自己の所有物と見なす風俗 さえも実は日本社会には残っている。それが如実に表れる例の一つが親子の無理心中である。自分が死んだ後に残される子供が不憫だ、という理由で親が子を道連 れにするのは、子供の人格を認めずに自らの所有物だとどこかで見なしているからである。

そこまで極端な例ではなくとも日本社会には同じ陥穽に落ちている現象が多い。たとえば親子の間に会話がなく、思春期の子供が激しく親に反抗する事態なども 実はその遠因に子供を独立の人格と認めない、つまり自らの所有物と見なす精神構造が関係している。幼児から子供を独立の人格と見なしていれば、親は子供と 対等に対話をせざるを得ないし、ただひたすらに勉強しろ、いい大学に入れと問答無用に強制し続けることも無くなる。

今イタリアを含む欧米のイスラム系移民社会で起こっていることは、どこかで日本の過去にもつながっている。欧米の過去にもつながっている。欧米も日本も試行錯誤を重 ねて「学習」し今の自由な社会を築いた。それはそこかしこに問題の多い、まだまだ不完全な自由社会だが、少なくとも中東のイスラム教社会よりは進歩した社 会である。この進歩とは欧米的基準あるいは日本的基準で見る進歩である。従ってイスラム教徒がそれを進歩とは認めないと主張するなら、彼らがそう主張する 権利と自由を認めつつも、やはりこちらの社会の方が進歩している、とわれわれが宣言する進歩である。

イスラム系移民がその進歩した社会に適合する努力をすることと、彼らが自らの宗教を守りその教義を実践することとはいささかも矛盾しない。欧米社会はそこ でもまた不完全ながら、多様性を重視しようと日々努力をしている。イスラム教徒の信仰を認め尊重することを欧米社会はためらわない。しかしそれを他人に押 し付けようとしたり、自らの宗教を盾に欧米社会の価値基準に挑もうとする者は容赦なく排除しようとする。

宗教は個人的内面的なものであり、社会の価値基準は公共の財産である。もしも宗教が公共の社会的価値基準に抵触する行動や主張をしなければならない場合に はこれを慎む、ということが欧州社会における最重要な暗黙の合意事項である。それは自らの神のみが絶対だと信じて疑わないイスラム教徒も例外ではない。しかしながら、イス ラム系移民はこのことを知らず、あるいは知っていてもルールを認めずに我を通そうとすることが多い、と自称「仏教系無神論者」の僕などの目には映る。

イスラム系移民のそんな頑なさは、シャルリー・エブドのジョークや風刺を受け入れない狭量にもつながる。シャルリー・エブドのイスラム風刺はもちろんイス ラム教徒への侮辱である。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教やイスラム教徒やイスラム社会の縮図でもある。立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのが多様性を受け入れるということである。そして多様性を受け入れない限り、欧米社会における中東移民と地元住民との融合 はありえない。それはもちろん欧米住民の側にも求められていることである。