20015年9月5日、アンゲラ・メルケル独首相は、ハンガリーで足止めを食っていたシリアをはじめとする中東などからの難民・移民を受け入れる、と発表した。

独首相の表明を受けて、英国ブラウン内閣で史上2番目に若い外務大臣を務めたデイヴィッド・ミリバンド氏は、「ヨーロッパが覚醒した」と驚きと賞賛を込めて発言した。

メルケル独首相の勇気ある決断は、ミルバンド氏の言葉を待つまでもなく、“欧州の歴史の分岐点”としてこの先も長く記憶されていくだろう。

先の大戦の悪夢と汚濁の中から立ち上がったドイツは、ナチスの亡霊と戦いながら国を立て直してきたが、今回また素晴らしい歴史物語を作り上げた。

中東やアフリカから欧州に流入する難民や移民の数は怒涛の勢いで増え続け、受け入れを拒否したい国と同情する国との間に確執が生まれつつあった。

ホロコーストの暗い過去を持つドイツは、欧州の中でも難民や移民の受け入れに積極的であり続けてきた。贖罪の意識がドイツを常にその方向に駆り立てた。

そのドイツでさえ最近の難民の急増には危機感を抱いた。相変わらず欧州最大の難民受け入れ国でありながら、EU(欧州連合)を隠れ蓑にして難民排斥の動きに加担したりもしてきた。

賛否両論が渦巻く混乱の中、3歳のシリア人難民アイラン・クルドちゃんが逃避行の途中の海で溺死し、その遺体写真が世界に衝撃を与えた。国際世論が大きく騒いだ。

人道的にこれ以上の難民拒否は無理だと悟ったメルケル首相は、ドイツを目指す難民・移民を受け入れる、という大いなる決断をした。山が動いたのである。

言うまでもなく幼児の遺体写真だけがメルケル首相の背中を押したのではない。戦乱や貧困を逃れて欧州を目指す難民の悲劇は、それまでにも欧州中のメディアで繰り返し語られてきた。それらの蓄積が首相の決断を促した。

メルケル首相の声明を受けて、ドイツ政府は冬に向けてただちに15万人分のベッドを用意し、今後は1年間に50万人程度の難民・移民を受け入れて行くと発表した。

ドイツが多くの難民を受け入れるのは、EU(欧州連合)のリーダーとしての道義的責任感があるからだ。が、同時に好調な経済状況とそれに伴う労働力不足を補いたい、という実務目的もある。

いずれにしてもドイツの動きは、欧州はもとよりアメリカにも大きなインパクトを与えた。難民受け入れに消極的だった英仏が前向きになったのに加えて、アメリカ政府もシリア難民を少なくとも1万人引き受けると発表した。

これまで欧州では、難民流入の最前線に立たされてきたイタリアやギリシャと、ドイツを主体とするEU(欧州連合)との間に、受け入れを巡って本音と建前を言い合う醜い争いが繰り広げられてきた。

また、EU(欧州連合)のメンバー国でありながら、英国は難民問題に関してはまるで他人事のような態度を取り続け、経済的負担を怖れる東欧のメンバー国も、難民受け入れに難色を示し続けた。

そこにドイツが、「自らの身を切る」と言うにも等しい犠牲を払う決断を下した。すると難民問題に対する欧州諸国の態度が一変した。誰もがドイツに続かなければならない、と考え始めたのである。

EU(欧州連合)がドイツと完全に同じ方向を向いているとはまだ言えない。ドイツが主導して進める難民割り当て制度に反対する国々も、前述の東欧国などをはじめ依然としてある。

しかし難民を巡って分断されつつあったEU(欧州連合)が、「難民受け入れ」という方向に向かって共に歩みを始めよう、とする空気が醸成されつつあることもまた事実である。

もとよりそれは、経済、文化、また社会的にも大きなリスクを伴う歩みである。着の身着のままで流れ着く人々の生活を支え、改善させていくのは受け入れ国にとって大きな経済的負担である。

それらの人々が、社会に順応し融合することを嫌って、摩擦が起きる可能性もある。現に欧州はイスラム系移民とキリスト教系住民との間の対立で、社会が分断されかねない状況にある。そして今の難民のほとんどもイスラム系の人々なのである。

難民受け入れの扉を開け放しにすることによって、生命の危険にさらされている真の難民ばかりではなく、より良い生活を求めて移住を試みるいわゆる経済移民も加わった、さらに多くの流民が殺到する可能性もある。

さらに指摘すれば、イスラム過激派のテロリストが難民を装い難民に紛れて、欧州全体に押し寄せるのではないか、というここイタリアなどで従前から危惧されていた事態が現実化する恐れも高まる。

それでも欧州、特にEU(欧州連合)諸国が、難民を自分以外の誰かに押し付けようとしてギクシャクした関係を続けた過去を捨てて、寛容の精神を回復し団結するなら、それらのリスクを取る価値が大いにある。

なぜなら欧州が一つにまとまれば、そこに北米なども加わって、難民が発生するそもそもの元を断ち切り改善するための方策が立てやすくなる。つまりイスラム過激派などを撃破し、中東に平和をもたらすことである。

そうした動きは欧米が、難民受け入れを実践すると同時に、日本なども含めた世界の国々を巻き込んで、目指していくべき道である。独メルケル首相は見事にその道筋を示した。

彼女の賭けが吉と出るか凶と出るかは分からない。が、メルケル首相が示した広く深い寛容の精神は、狭量と憎悪に支配されかけていた欧州の良心を呼び覚ました。メルケル首相はそうやって歴史に大きな足跡を残した。