又吉直樹の「火花」を読んで、久しぶりに芥川賞作品を評価していたら、本が売れまくっていることに疑問を呈する人々がいると知った。
少し違和感のある話だ。芥川賞系の文芸本、あるいはいわゆる純文学系の作品が売れないのは、内容が重箱の隅をほじくるようなものが多く退屈だからだ。
それを売るには何らかの話題性やマーケティング戦略が必要だ。又吉本の場合は、書き手がたまたま芸人、という大きな話題性があって売れた。
元からあった豊かな話題性に加えて、販売戦略もいろいろ工夫があったのだろう。それでなければ純文学本が200万部以上も売れるわけがない。
出版不況が言われて久しい。そんな折に又吉本が売れているのは実に素晴らしいことである。売れている事実に文句を言うのは、嫉妬か怨みか揚げ足取りのようにしか見えない。
又吉本が文学であるかどうか。文学であるなら文学としての批評、また文学でないなら何故それが文学ではないのか、という議論や批評は大いになされて然るべきだ。
しかし、本が売れていること自体をあたかも文学批評のように語るのはナンセンスだ。本の内容を、それが文学か否かも含めて議論するのが文学批評であって、売れた売れないは単なる商売話だ。
文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。
曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。
そこに売れまくったという「結論」が明快な又吉本が出現した。そこで批判者たちは商売上の結論と文学論上の「出ないはずの結論」を混同して、または意識的に交錯させて売れる又吉本への苦言を語る。
批判者の多くは純文学偏愛者の人々である。彼らにとっては文学論争よりも純文学の又吉本が売れたという事実が重要だ。それは許しがたいことなのだ。というのも純文学とは、売れないことがレゾンデートルでもあるかのような文芸分野だからだ。
作家を含む純文学愛好家たちも元々は本を売りたかった。だが大衆を無視する自己本位のマスターベーション文芸が多く売れるはずはなく、売れないのが当たり前という状況が長く続いた。
そうこうするうちに売れないこと自体が純文学の証のようになった。だから純文学の関係者は、売れる本は中身が何であれ、とにかく先ず否定しようと試みるように見える。寂しい発想である。
純文学はそのままでは文学ではない。それは文芸のうちの大衆文学や古典文学などと並ぶ純文学という1ジャンルに過ぎない。しかも純文学は「日本に特有の」不思議な文芸ジャンルだ。
1文芸ジャンルに過ぎない純文学は、僭越にもわれこそ「文学」と主張して、例えば大衆文学などは娯楽に重きを置くから文学ではない、などと訳のわからないことを言い続けてきた。
そして不思議なことに大衆文学の方もその説に迎合した。そうやって日本の文芸界は、純文学は「文学」、大衆文学は「娯楽」あるいは「エンターテイメント」、と色分けして平然としていた。
その伝でいくと、たとえば山本周五郎や藤沢周平や司馬遼太郎などの優れた小説も文学ではないということになる。それらはいわゆる大衆小説と呼ばれるジャンルの作品群だからだ。そんなバカな話はない。
大衆文学のうちの優れたものはいうまでもなく「文学」である。同じように純文学のうちの面白いものが「文学」になる。又吉直樹の「火花」は面白い純文学、つまり文学の域に達した純文学作品、というのが僕の意見だ。
又吉本「火花」の文学たる所以は、笑いを追及する主人公と準主人公の2人が紡ぐ、笑いの哲学の提示である。そこには言葉の発明と発見があり、新鮮な発想がある。
それがストーリー的には退屈な、あるいは物語の展開の貧弱な、というかほとんど発展のない、ありふれた純文学的状況を補填しあるいは隠蔽して、作品を面白くしている。
そこで提示された芸人の物語は、生の不条理と真実を抉り出した文学的に昇華された世界であり、且つ純文学の退屈を一掃した興味深い構成になっている。つまり本物の文学になっている。
売れないことがゲージュツの証、というような純文学者の態度は、真の芸術を抹殺する。なぜなら「売れない」とは、言葉を変えれば大衆を「置いてけぼり」にすることだからだ。
歴史を見ればそれは一目瞭然だ。例えば映画が登場した際、「われこそ芸術」と誇っていた劇場や劇場人は、映画を下卑た大衆芸能、芸術まがい、けれん、俗物等々とけなし嘲笑した。
しかし、映画を見下すことで大衆から目をそむけた演劇は、間もなく娯楽の王様の座を映画に取って代わられ、劇場は映画館に駆逐されて行った。それは映画が優れた娯楽また芸術として、われわれの世界を席巻して行く過程でもあった。
その後映画は、新しいメディア・表現様式であるテレビを、かつて演劇が映画に対したのと正確に同じ態度で捉え、嘲笑し思い上がっているうちにたちまち衰退して、テレビ全盛の時代を迎えた。
ところが今やそのテレビでさえ、インターネットによって没落させられるのではないか、という時代である。演劇も映画もテレビも決して死ぬことはない。だが時流に押されてますますやせ細っていく。
テレビが芸術か、あるいは芸術の域に達する番組を作り出したか否かは意見の分かれるところだろう。テレビはそこに至る前に死につつある、とも考えられる。ひとつだけ確かなことは、芸術は大衆の心を捉える文物の中にこそある、ということだ。
本が売れないのは、そうした歴史の事例に似た「ゲージュツ」志向に文学関係者が陥った結果だ。言葉を変えれば、面白くないものを面白くない、と正直に認めて改善する努力を怠った結末である。
売れる本が、他の売れない本への興味を喚起して波及効果が現れる、現れないという議論もナンセンスだ。売れない本が売れるようになるのは、その本が実は面白い本だと読者が気づいたときであり、売れまくっている他の本とは何の関係もない。
そういうわけで、又吉本は又吉本として売れまくって終わり。他の出版物とは一切の因果関係を持たない、と考える方が自然だ。同時にそれが大いに売れたことは徹頭徹尾良いことであり、疑問を挟む余地はない。
文学である又吉本は売れた。それは前述したように良いことだ。また又吉本がたとえ文学ではなくても、売れたことはとにかく良いことだ。
本はコミュニケーション手段だ。コミュニケーションとはより多くの人に情報が行き渡るほど価値がある。だからどんな本であれ、つまりこの場合は文学であれ非文学であれ、売れないよりは売れた方が増しなのだ。
出版界はさらなる又吉本を作り出すために話題性と販売戦略を求めてまい進するべきである。売れる本を次々に生み出すこと。それが出版不況を抜け出す唯一の道であり文学復興のキーワードだ。
facebook:masanorinaksone
少し違和感のある話だ。芥川賞系の文芸本、あるいはいわゆる純文学系の作品が売れないのは、内容が重箱の隅をほじくるようなものが多く退屈だからだ。
それを売るには何らかの話題性やマーケティング戦略が必要だ。又吉本の場合は、書き手がたまたま芸人、という大きな話題性があって売れた。
元からあった豊かな話題性に加えて、販売戦略もいろいろ工夫があったのだろう。それでなければ純文学本が200万部以上も売れるわけがない。
出版不況が言われて久しい。そんな折に又吉本が売れているのは実に素晴らしいことである。売れている事実に文句を言うのは、嫉妬か怨みか揚げ足取りのようにしか見えない。
又吉本が文学であるかどうか。文学であるなら文学としての批評、また文学でないなら何故それが文学ではないのか、という議論や批評は大いになされて然るべきだ。
しかし、本が売れていること自体をあたかも文学批評のように語るのはナンセンスだ。本の内容を、それが文学か否かも含めて議論するのが文学批評であって、売れた売れないは単なる商売話だ。
文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。
曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。
そこに売れまくったという「結論」が明快な又吉本が出現した。そこで批判者たちは商売上の結論と文学論上の「出ないはずの結論」を混同して、または意識的に交錯させて売れる又吉本への苦言を語る。
批判者の多くは純文学偏愛者の人々である。彼らにとっては文学論争よりも純文学の又吉本が売れたという事実が重要だ。それは許しがたいことなのだ。というのも純文学とは、売れないことがレゾンデートルでもあるかのような文芸分野だからだ。
作家を含む純文学愛好家たちも元々は本を売りたかった。だが大衆を無視する自己本位のマスターベーション文芸が多く売れるはずはなく、売れないのが当たり前という状況が長く続いた。
そうこうするうちに売れないこと自体が純文学の証のようになった。だから純文学の関係者は、売れる本は中身が何であれ、とにかく先ず否定しようと試みるように見える。寂しい発想である。
純文学はそのままでは文学ではない。それは文芸のうちの大衆文学や古典文学などと並ぶ純文学という1ジャンルに過ぎない。しかも純文学は「日本に特有の」不思議な文芸ジャンルだ。
1文芸ジャンルに過ぎない純文学は、僭越にもわれこそ「文学」と主張して、例えば大衆文学などは娯楽に重きを置くから文学ではない、などと訳のわからないことを言い続けてきた。
そして不思議なことに大衆文学の方もその説に迎合した。そうやって日本の文芸界は、純文学は「文学」、大衆文学は「娯楽」あるいは「エンターテイメント」、と色分けして平然としていた。
その伝でいくと、たとえば山本周五郎や藤沢周平や司馬遼太郎などの優れた小説も文学ではないということになる。それらはいわゆる大衆小説と呼ばれるジャンルの作品群だからだ。そんなバカな話はない。
大衆文学のうちの優れたものはいうまでもなく「文学」である。同じように純文学のうちの面白いものが「文学」になる。又吉直樹の「火花」は面白い純文学、つまり文学の域に達した純文学作品、というのが僕の意見だ。
又吉本「火花」の文学たる所以は、笑いを追及する主人公と準主人公の2人が紡ぐ、笑いの哲学の提示である。そこには言葉の発明と発見があり、新鮮な発想がある。
それがストーリー的には退屈な、あるいは物語の展開の貧弱な、というかほとんど発展のない、ありふれた純文学的状況を補填しあるいは隠蔽して、作品を面白くしている。
そこで提示された芸人の物語は、生の不条理と真実を抉り出した文学的に昇華された世界であり、且つ純文学の退屈を一掃した興味深い構成になっている。つまり本物の文学になっている。
売れないことがゲージュツの証、というような純文学者の態度は、真の芸術を抹殺する。なぜなら「売れない」とは、言葉を変えれば大衆を「置いてけぼり」にすることだからだ。
歴史を見ればそれは一目瞭然だ。例えば映画が登場した際、「われこそ芸術」と誇っていた劇場や劇場人は、映画を下卑た大衆芸能、芸術まがい、けれん、俗物等々とけなし嘲笑した。
しかし、映画を見下すことで大衆から目をそむけた演劇は、間もなく娯楽の王様の座を映画に取って代わられ、劇場は映画館に駆逐されて行った。それは映画が優れた娯楽また芸術として、われわれの世界を席巻して行く過程でもあった。
その後映画は、新しいメディア・表現様式であるテレビを、かつて演劇が映画に対したのと正確に同じ態度で捉え、嘲笑し思い上がっているうちにたちまち衰退して、テレビ全盛の時代を迎えた。
ところが今やそのテレビでさえ、インターネットによって没落させられるのではないか、という時代である。演劇も映画もテレビも決して死ぬことはない。だが時流に押されてますますやせ細っていく。
テレビが芸術か、あるいは芸術の域に達する番組を作り出したか否かは意見の分かれるところだろう。テレビはそこに至る前に死につつある、とも考えられる。ひとつだけ確かなことは、芸術は大衆の心を捉える文物の中にこそある、ということだ。
本が売れないのは、そうした歴史の事例に似た「ゲージュツ」志向に文学関係者が陥った結果だ。言葉を変えれば、面白くないものを面白くない、と正直に認めて改善する努力を怠った結末である。
売れる本が、他の売れない本への興味を喚起して波及効果が現れる、現れないという議論もナンセンスだ。売れない本が売れるようになるのは、その本が実は面白い本だと読者が気づいたときであり、売れまくっている他の本とは何の関係もない。
そういうわけで、又吉本は又吉本として売れまくって終わり。他の出版物とは一切の因果関係を持たない、と考える方が自然だ。同時にそれが大いに売れたことは徹頭徹尾良いことであり、疑問を挟む余地はない。
文学である又吉本は売れた。それは前述したように良いことだ。また又吉本がたとえ文学ではなくても、売れたことはとにかく良いことだ。
本はコミュニケーション手段だ。コミュニケーションとはより多くの人に情報が行き渡るほど価値がある。だからどんな本であれ、つまりこの場合は文学であれ非文学であれ、売れないよりは売れた方が増しなのだ。
出版界はさらなる又吉本を作り出すために話題性と販売戦略を求めてまい進するべきである。売れる本を次々に生み出すこと。それが出版不況を抜け出す唯一の道であり文学復興のキーワードだ。
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