財政危機に端を発した深刻な不況に苦しんでいたイタリア経済は、今年初め頃からゆるやかに回復を始めた。過去最悪の13.4%まで高まった失業率は現在は11.9%まで持ち直している。またIMFはイタリア経済が予想よりも早く好景気に入りつつあると具体的な数字で示した。

そんな折の10月初め、イタリア上院が自らの議員の定数を315から100に減らす改革案を承認した。イタリア議会は上下2院制を敷いているが、上院と下院が同じ権限を持つと同時に選挙制度が違うため、政府与党が過半数を維持するのが難しい。この制度はファシズムの台頭を抑えるために戦後導入された。

上院はしばしば改革を骨抜きにしたり、法案をブロックしたり、挙句には政権を転覆させたりもする。イタリアの内閣は戦後これまでに63回も組閣されたが、上院が政権をたやすく引き摺り下ろせる権限を持つために、そうした政治混乱が頻繫に起こってきたのである。

1983年以降イタリアの歴代政権は上院改革を試みてきた。が、自己保身に走る上院によってことごとく阻止された。欧州で政権が両院の信任を受けなければ ならないシステムを持つ国は、元共産主義国のルーマニアを除けばイタリア1国のみである。今回の改革案は下院に送られ、再び上院に戻されて審議された後に 国民投票にかけられる。

改革は道半ばのように見えるが、障害であり続けた上院が承認したことで、来年半ば頃には確実に成立すると見られている。イタリア政局の足枷であり続けた上 院の改革が完成すれば、若きレンツィ首相は1月の大統領選挙に続いて、歴史的と形容してもいい大きな政治的勝利を収めることになる。

レンツィ首相の政敵である五つ星運動と右翼の北部同盟は、上院改革が野心的な首相をより強権的存在に作り変えるとし、同じくレンツィ政権と対立するフォル ツァ・イタリア党のベルルスコーニ元首相は、上院改革によってレンツィ首相は独裁権力を持つ危険な存在になると批判している。

それらは批判のための批判に過ぎない。上院改革は、上院議員以外の全てのイタリア人が望んでいるとさえ言われてきた。それはつまり、彼ら批判者も含めたイ タリア政界と国民の全ての願い、ということである。今回の改革によって「変われば変わるほど全てが同じ」と皮肉好きの国民が嘆いてきた、イタリアの政治は 確実に変わるだろう。

しかし、政治が変わり政権が安定することになっても、時にはカオスにさえ見えるイタリアの国のあり方と、それを支える国民の心は変わらないだろう。この国では、議会でも一般社会でも、一つの事案に対する意見や議論が百出して収拾がつかなくなることが多い。それは「違い」や「多様性」を何よりも愛し、重視す る国民によって生み出される。

イタリアが統一国家となったのは約150年前のことに過ぎない。それまでは海にへだてられた島嶼州は言 うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが共和国や公国や王国や自由都市などの独立国家として勝手に存在を主張していた。現在の統一国家 イタリア共和国は、それらの旧独立小国家群を内包して一つの国を作っている。

それは国家の中に多様な地域が存在するということではない。何よりもまず地域の多様性が尊重され優先され賞賛された後に、そのことを追認する形で国家が存 在する、とでも説明されるべき様態である。少なくとも国民それぞれの心中には、統一国家イタリア共和国に先立って自らの住むかつての独立都市国家が存在 し、その伝統や精神が彼のルーツを形作っているのである。

言葉を変えればイタリア国民は、統一国家の国民であると同時に、心的にはそれぞれがかつての 地方国家にも属する。現在の統一国家が強い中央集権体制に固執するのは、もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからである。

各地方が勝手に独立を唱えるような状況では、統一国家は当然まとまりに欠ける。イタリアの政権が絶えずくるくる変わったり、何事につけ国家としてのコンセ ンサスがとれなかったりするのは、上院と下院が同じ権限を持つ、という特殊な政治制度が直接の原因だが、その遠因には常に、独立自尊の心を持つ各地方が、我が道を行こうとして喧々諤々の主張を続ける現実もあるのである。

そして何よりも大切な点は、イタリア国民の大多数が、「国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式 と独創的なアイデアを持つことの方がこの国にとってははるかに重要だ」と考えている事実である。言葉を変えれば、彼らは、「それぞれの意 見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致する。

それは多様化とグローバル化が急速に進んでいく世界の中にあって、非常に頼もしい態度であり良い国の在り方だと僕は思う。多様性こそイタリア共和国の真髄 である。その伝統が「上院改革」によって今日明日にもなくなるとは考えにくい。イタリアはカオスそのものにさえ見える「イタリア的秩序つまり多様性重視」 の国家だからこそイタリアなのである。それが無くなればそれはもはやイタリアとは呼べない。