去った敬老の日に「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と断言したのは、間もなく90歳になる義母、ロゼッタ・Pである。正確に書くと彼女のセリフは「私のようにいつまでも死なない老人を敬う必要はない」という主旨だった。

義母は真正の老人であるから、彼女が「私を含む」老人はこうあるべき、という形の発言をしても許されると思う。しかし、第三者のたとえば僕が、老人はどう生きるべきか、などと発言するのは僭越であり非礼であり許されないことである。

従って僕はこの記事では、僕自身の将来、つまり必ず老境に入っていく自分はこうありたい、ということを語ろうと思う。還暦の僕は義母ほどの老人ではないが、20代や30代の若者からみればりっぱな老人だろうから、そう語る資格があると思うのである。

一言でいえば、全ての老人は義母が指摘した「老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい」という概念を完全否定する生き方をするべきである。つまり「愚痴を言わず自立心を強く持ち他者に面倒をかけない」ことだ。それは義母自身の生き方でもある。

病気や老衰で動けなくなれば仕方がないが、長生きをする者は義母のように生涯を過ごすのが理想だろう。いや、それを他人事のように「理想」と言ってはならない。そういう生き方を目指すのがむしろ老人の義務だ、と僕は考えている。

ここで言う自立には2つの側面がある。1つは義母が指摘した心体の自立である。それはほぼ健康と同一語だ。肉体の自立は己の意志ではどうしようもないケースが多々ある。病気は他動的なものだからだ。しかし、精神の自立は逆に能動的に獲得できるものだ。

高齢者の精神の自立とは、子供が親離れをするように老人が子供離れをすることである。体が動くのに子供に頼ろうと希求する老人は、少なくとも僕の周囲で は、欧米人に比べて日本人が圧倒的に多い。それは若年の頃から自立志向の教育を受けていないのが原因である。日本人の自立心の弱さは日本国の弱さと同じも のだ。

もう一方の側面は経済的な自立である。これは年金という助けによって成されるべきだが、基本は飽くまでも自らで稼ぐ形でなければならない。つまり、いつま でも死なない老人は、元気でいる限り仕事もするべきである。それもまた老人の義務と言っても良いと思う。それは年金給付年齢の引き上げ、という政策とほぼ 同義でもある。

イタリアを含む欧州のほとんどの国は日本同様に長寿国である。世界の他の先進国も事情は同じだ。それらの国では年金を始めとする社会保障費の膨張は止まる ことを知らず少子化も深刻だ。長寿者は元気に長く生きているのだから、その分仕事をして経済的に自立しなければ国の財政が破綻するのは目に見えている。

敬老の日にちなんで発表された厚労省の統計によると、65歳以上の高齢者が日本の総人口に占める割合は、おととし初めて25%を超えてからも増え続けていて、今年は26,7%。過去最高になった。日本人の4人に1人以上が高齢者だ。

また80歳以上の人は1002万人、史上初の1000万人越えである。それらは慶賀するべきことだろうが、国の財政つまり社会保障費というシビアな観点から見れば、破滅的な状況と言っても過言ではない。

それらの数字が示唆しているのはやはり、高齢者も仕事をするべき、という当然過ぎるほど当然な成り行きである。高齢者というコンセプトには、仕事をしない年齢あるいは仕事ができない年齢の者、というニュアンスが込められている。

ならば今や高齢者と規定されるべき年齢は65歳ではなく75歳、いやもしかすると80歳でも良いのではないか。65歳以上を高齢者と規定する日本社会のあ り方はもはや時代錯誤だ。高齢者を「老人」とひとくくりにして尊敬する振りで見下したり、無視したりせずに、労働力としてもしっかりと認識するべきであ る。

高齢化の進展という流れで言えば、不惑などというのも40歳ではなく50歳、それどころか思い切って60歳と改めた方が良いとさえ思う。現代人はそれほど長く生き、高齢者も多くがカク シャクとしている。人生50年とも言われた時代に規定された、高齢者の概念を後生大事に抱え込んでいる日本の状況は異常だ。

元気な高齢者が働いて、不幸にして病気や老いで倒れてしまう他の高齢者の生活を支える、というくらいの発想の転換があってもいい。もちろんそれだけでは足りないだろうから、社会保障費をそこに回して手助けをしなければならないのは言うまでもない。

また少子化を穴埋めするために移民を受け入れて、人生経験の豊富な高齢者が移民と1対1で彼らを導き、教育をして日本の文化や風習に溶け込んでもらう手 助けをする、というような仕組みもあっていい。誤解を恐れずに敢えて言えば、彼ら移民を監視誘導して“日本人”になってもらう努力をする、といったことで ある。

超高齢化社会では老人自身と社会全体の意識改革が求められていて、それは若年のころから国民を教育しないと完成しない。恐らく今もっとも求められているの は、「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などと、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断し、その結果として精神を呪縛 し、閉塞感と狭量と抑圧に満ちた世界を形成する、東洋的な行動様式からの1日も早い決別である。