激増する長寿者を「いつまでたっても死なない老人」と喝破した、ほぼ90歳の義母の名言にここしばらくこだわっている。ハゲて太った点を別にすれば、精神のバカさも含めて30代や40代とあまり変わらないと感じる還暦の自分も、やはり確実に老いているのだろう。、
先ごろ、イタリア、ナポリ近くのサレルノ県スカファーティで、84歳の女性が88歳の夫と離婚したいと表明した。その理由は夫とのセックスに不満だから、というものだった。もっと正確に言うと、セックスの回数が少な過ぎるという主張である。
女性は元教師。4歳年上の夫は元銀行員。女性にとっては3回目の結婚。前夫2人とはともに死別。今の夫は前夫2人とは違って、月に2度しか彼女を愛してくれない。セックスの回数が少な過ぎて欲求不満だと女性は弁護士に告発した。
弁護士がさらに話を聞いてみると、女性は夫にバイアグラを飲んで頑張ってほしいために、離婚話を持ち出してプレッシャーをかけているのだという。夫が受け入れないなら離婚して、ほかに愛人を探す、と女性は言い募った。
女性の直訴に困惑した弁護士は、セックスに代わる何か、つまり女性の年齢に見合う趣味とか生き甲斐を見つけた方が良い、と彼女を促した。それに対して女性は「私には子供も子守をするべき孫も、甥っこや姪っこもいない。たった一つの楽しみがセックスだ。なぜそれを諦めなければならないのか?」と逆切れした。
この女性の言い分は、ある人にとっては眉をひそめたくなるものかも知れない。またある人にとっては滑稽なものであるのかも知れない。エピソードが新聞記事になり英語翻訳版まで出た事実が、興味本位の人々の関心を如実に示している。しかし、高齢者の性欲が好奇なものであるとは僕には思えない。
女性に相談を持ちかけられた弁護士が、セックスではなく年相応の何かに興味を持った方がいいとアドバイスしたことにも納得がいかない。上から目線の弁護士の言い分が事実なら、彼は弁護士を名乗る資格などない。愚かで無知で鈍感な人間だと思う。
江戸の名奉行大岡越前守は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、女(やや高齢だった?)が誘った、との男の釈明に納得ができず、自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と問う。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して「灰になるまで。即ち死ぬまで」と告げた。
その話が実話か否かは問題ではない。エピソードには人の性の本質が見事に描かれているから、その話は万人の心を撃つ。年齢と共に変遷する人の心身のあり方には大きな個人差がある。性の様相も千差万別だろうが、人の性欲が死の間際まで存在するというのは普遍的事実だろう。
従って、84歳の女性がセックスに生き甲斐を感じていても何も不思議ではない。そこでの少しの驚きは、女性が夫にバイアグラを飲んでくれと主張した点だ。高齢の女性の旺盛な性欲はそれだけで既に興味深いが、老夫婦の性愛が依然として肉体的な結合であるらしいのは、少なくとも僕にとっては、新鮮な発見だ。
生殖を念頭におかない高齢の男女のセックスは、性器の結合よりもコミュニケーションを希求する触れ合いのセックスである場合が多い。つまりそれは男女が、いわば「生きている」ことを確認し合う行為である。愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ。
高齢者のセックスの場合は体のあらゆる部分が性器だと表現する専門家さえいる。それは「柔和な癒し合い」という意味だろうが、同時にそれはもしかすると、若い頃のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれない。なにしろ体全体が性器だというのだから。
女性の要望や欲求は決して滑稽なものではないと思う。元気で、且つ心と体が若い彼女は、セックスを楽しみたいのである。老人の心身は枯れてしぼんでいるべきで、その年でセックスしたいなどというのはイヤラシイ、恥知らず、気持ち悪いなどというのは、あたらない。
それでも「ババアの性欲はキモイ」みたいな石原慎太郎的差別発言をする者がまだいるなら、僕はその人にこう聞きたい。ならばこの女性が性依存症ならどうだろうか、と。それでもあなたはこの女性を「年寄りのくせにセックスなんか考えるな」と責め続けるだろうか、と。
日本では「セックス中毒」などと面白おかしく語られがちだが、性依存症はりっぱな病気だ。最近の有名例では、ゴルフのタイガー・ウッズがその病気のために世間から総スカンを食って、ついにゴルフ界の帝王の地位から転げ落ちたことが記憶に新しい。
イタリアの片田舎に住むこの高齢の女性は、もしかすると性依存症なのかもしれない。そうだとするなら彼女のセックス好きは、いわば快楽という名の地獄である。それは苦しい病であり、同情されてしかるべき性癖だ。
そうではなく、彼女は年齢が進んだ今もひたすらセックスが好きでしかも実践し続けていたい、というなら、それはそれで素晴らしいことではないか。それを否定するのは、例によって高齢者を「老人」とひとくくりにしてその存在を貶める、世の中の偏見と差別と偽善の所産に過ぎない。