本物美雪秋写真
北イタリア・コモ湖近くの秋景色

ここ北イタリアの気候は、歴史上もっとも暑いとされた7月を経験した後、8月から10月にかけて平年並みに過ぎた。短い秋を経てこのまま冬に突入かと見られた11月は、サンマルティーノと呼ばれる「小春日和」にも恵まれて、穏やかに推移している。

秋の日はつるべ落と しと言うが、この国では秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去る。印象としては夏が突然冬になる。日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアだが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行く。

ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉 (わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はない。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現する。

少し優美に言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もある。だが、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に 葉」という言い方が基本であり普通だ。

ミラノ市中の紅葉ヨリ50%
ミラノ市中「il sole24ore紙」中庭の秋景色

言葉が貧しいと いうことは、それを愛(め)でる心がないということである。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのである。紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ない。

前述したように夏がいきなり冬になるような季節変化が特長的なイタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思うが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはない。ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではない。

それと似たことは食べ物でもある。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合がある。というか、魚介類をまとめてフィッシュと呼ぶことは珍しくない。Seafood(シーフード)という言葉もあるが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことが多いように思う。イタリア語もそれに近い。だが、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるだろう。

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュだから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになる。もっとも欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったが-。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのである。

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいる。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちる。また、ラテン人でもナマコなどは食い物とは考えないし、海藻もそうだ。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいる。
 
多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや愛着や文化がある。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出した。
 
もちろん西洋には西洋人の思い入れがある。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもない。

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を待たないところである。心情が濃密であるとは、言葉が豊かで深く広いということにほかならない。その部分では日本語は未だ欧米語の後塵を拝していると言えるかもしれない。