同性(愛)結婚を認めるか否かでイタリア国会が紛糾している。この国は欧米主要国の中では唯一、同性婚を合法化していない。それは同性愛を認めないキリスト教・カトリックの総本山バチカンを擁していることと無関係ではない。

同性愛者の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気になったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実な願いも背後にある。つまり家族愛である。

同性愛者は差別によって恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。文明社会ではもはやそんな未開性は許されない。同性結婚は、ここイタリアを含むあらゆる社会で、ただちに認められるべきだと考える。

日常生活の場ではイタリアでも同性愛者への認知は進んでいる。ゲイやレスビアンの首長や国会議員は珍しくないし、アーチストや文化人などの有名人で同性愛者を表明している者も多い。世界的なファッションデザイナーで、同性愛文化への苦言も呈するドルチェ・ガバーナ自身もゲイだ。

遅れているのは法整備である。同性婚を合法化していく世界の風潮に合わせて、イタリアでもほぼ10年に渡って議論そのものは重ねられてきた。最近は立法化する方向で意見が集約され、今年に入ってからは決議に向けて上院で熱い審議が重ねられている。

立法化を主導しているのは民主党を主軸とする政権与党。それには議会第2勢力である革新派の五つ星運動も同調してきた。ところが同性愛者を嫌うバチカンの横槍などもあって、議会での攻防は紛糾。五つ星運動は法案の審議途中で自主投票にするとした。

風見鶏的な動きも得意な五つ星運動は、賛成から自主投票に変節して多くの保守派の国民に媚を売ったのである。同運動の方針が出たとたんに所属の上院議員が雪崩を打って反対に回り、議会は混乱の極みに。法案はいったん腰砕けになった。

最も革新的であるはずの五つ星運動の中には、イタリア的保守主義者が大勢潜んでいたことが図らずも露呈した。そのように表向きは進歩の仮面を被っていても、教会の古臭いドグマや偏執に影響されているイタリア人は多い。だからこそ同性婚は中々認められずにきた。

政治勢力でいえば、五つ星運動とは対極にある右翼の北部同盟がその典型である。五つ星運動は同性婚法の審議過程で自らの主張を投げ出すような動きをしたことにより、期せずして合法化に強く反対している北部同盟を利することになった。

イタリア社会には同性愛そのものもさることながら、彼らが子供を持つことへの強い拒絶感情も存在する。同性愛や同性婚は受け入れても、彼らの養子縁組には反対を唱える者が多い。それを認めればこの国では違法である代理母出産が一気に増えると恐れる者も少なくない。

同性婚カップルの子供は成長するに従って必ず他の子供たちから、そして社会から「いじめ」や「差別」 を受ける。それによって子供が蒙る被害は甚大である。従って同性愛者は将来苦しむことがほぼ確実な子供を持つべきではない、というのが反対論者の主張である。

告白すればつい最近まで僕もそれに似た考えにとらわれていた。僕はもうずっと前から同性愛者の結婚には賛成の立場である。それにもかかわらず彼らが子供を持つことにはかすかな違和感を抱き続けてきた。結婚したゲイの友人さえいるにもかかわらずだ。

ゲイの彼らが、同性愛者のカップルが子供を持つことには反対している事実も僕の気持ちを後押ししていた。しかし、そうした考え方は間違っている。僕はここからは、次の理由によって同性愛者が子供を持つことにも賛成する、と大手を振って言おうと思う。

ゲイの両親を持っていなくても、子供たちはあらゆる原因で差別やいじめに遭う。むしろそれが無いほうが珍しいくらいだ。それでも「ゲイの両親」を持つ子供への偏見や差別やいじめは、他の原因による場合よりも激しいものである可能性がある。

なぜ子供たちは同性愛者の親を持つ子供を差別するのか。それは言うまでもなく親や家族や社会が子供たちに差別感情を植え付けているからである。だからこそわれわれ大人は、子供たちにいじめや差別を教え込む社会の歪みを正さなくてはならない。

生まれてくる子供は親を選べない。子供が不利な環境で生まれてくる可能性としては、例えばここイタリアにも多い両親あるいは片親が麻薬中毒者である場合。 親が犯罪者とりわけ殺人犯人である家に生まれる子供。また世間が差別偏見の目で見るために、身体が不自由な親の場合も子供は不利である可能性がある。

その他さまざまなケースで子供は何かと差別され偏見の目で見られることがある。従って、同性愛者のカップルを親に持つ子供だけがほかのケースとは全く違う理由で差別される、と考えるのはその考察自体が既に偏見、とも言える。それは彼らを二重に差別することだ。

同性愛者の子供たちは、犯罪者や麻薬所常習者やその他の弱者の子供同様に、そして何よりもその他の全ての「普通の家庭の子供」と同じように、等しく愛され保護されるべき存在である。当たり前のことだが子供たちには罪はないのだ。

さらに僕はこうも考える。自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその部分では幸せである。

いまの社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念も確かに強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算も非常に高いとも考えられる。そうした明るい展望も見逃すべきではない。

同性愛者の皆さんを差別しない人々は彼らの子供たちに対しても偏見差別などしないはずだ。それどころか必ずそれらの子供たちを慈 しみ、他の「普通の」子供たちと分け隔てのない存在と見なし、又そう行動するだろう。

そしてイタリア社会は間もなくその方向に向けて歩み出すものと思う。この国はバチカンのおかげで何事につけ保守的なところもあるが、基本的に人間愛に満ちた人々の住む国だから、一度そう決めると良い方向に突っ走る傾向が強いのである。