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日本では、国・地方の各種議員やおなじみのネトウヨ系レイシストらによる、同性愛者やLGBTの人々へのヘイト・偏見・差別発言や意見開陳が相次いでいると聞く。

バチカンを抱えて、その方面ではガチガチの保守国であるここイタリアでも、同性婚法の成立に向けて是々非々喧々諤々の議論が沸き起こって、かしましい毎日が続いている。

LGBTを巡る現実は、欧米をはじめとする世界のそれと同様に、イタリアでも法律の遥かな先を行っている。事実は小説よりも奇なり、と言うが「LGBTを巡る現実は法律よりはるかに奇」でありシビアであり斬新である。

破局と波紋

あたかもそんな騒がしい世情に触発されたように、シチリア出身の友人夫婦ジュリオとローザが離婚した。妻のローザがレスビアンであるとカミングアウトして、短い協議期間を経て夫婦は別れたのである。

2人はおよそ30年連れ添った。破局した数年前、あるいは敢えて言えば「事件」が起きたとき、ジュリオは57歳、ローザは間もなく50歳を迎えようとしていた。2人には3人の子供がいる。

ほぼ30年にも渡って夫婦でありながら、また3人の子供までもうけながら、突然レスビアンであると宣言したローザのアクションは、衝撃と形容するのが空しいほどの爆震を周囲にもたらした。

ローザの爆弾宣言にもっとも打ちのめされたのはジュリオである。彼は離婚を機に落ち込んでしまって、2016年3月半ば現在、まだそのショックから回復していない。回復どころか沈みぱなしである。

ローザの両親とジュリオの老いた母親には2人の離婚は知らされたが、ローザのカミングアウトの件は伏せられた。老いた親たちが、どこかから洩れくる噂で真相を知ったかどうかは定かではない。

僕ら夫婦は初めローザの真意を疑った。彼女のレスビアン宣言はもしかすると、亭主関白の域を超えて少し暴君的な傾向さえある、夫のジュリオへの反乱ではないか、と思ったのだ。

2人は仲の良い夫婦ではあったが、家族の何事もジュリオが独断で決めてローザはそれに従うという風だった。ひどく女性的で大人しいローザはそのことへの不満をほとんど口にしなかった。

だが彼らの関係は、ジュリオの一人舞台が過ぎるように僕らの目には常に映った。僕ら夫婦のその懸念は、ローザと妻が女同士の会話をする中で追認され、ローザの不満がくすぶっていることが明らかになっていった。

疑問と困惑

ローザの突然の同性愛者宣言は、彼女が街のレスビアングループに接触した直後に飛び出した。そのグループは反男性あるいは反マッチョを旗印にして、かなり激しい活動をすることで知られている。

グループは「レスビアン団体」を名乗っているが、夫からDVを受けたり虐待されたり等の不当な扱いをされた女性たちも多く加わっている、という噂がある。ローザもそうした女性の一人ではないか、と僕らは疑ったのだ。

僕らがそう推測した理由は先ず、ローザが夫の亭主関白ぶりについて不満を言うことが多くなっていたこと。彼女がグループの集会に参加して、虐待被害者の女性らに強い連帯感を覚えた、と話していたことなどがある。

それに加えて彼女が夫との間に3人もの子供をもうけている事実、また前述したようにローザが人並み以上に女性的で、良き母、良き妻の典型のような女であることなども、ぼくらの目をくらました。

女性を好きな女性が子供を作れる筈はなく、さらに良き母であり良き妻である女性が、同じ女性を好きになるというのは大いなる矛盾だ、と僕らは無意識のうちに断じてしまっていた。

しかしながら彼女の中には、同性愛者の素質が確かに眠っていて、たまたま
「男を糾弾する会」的な要素も持つレスビアン・グループに出会って一気に花開いた、というのが真相らしい。

ローザの再生

ローザは間もなく恋人と称する女性を連れて帰宅したりもするようになり、全く後戻りのできない又その気もさらさらない地点にまで到達した。その後さっさと家を出て恋人と同棲を始めた。

滑稽なことだが、そうなっても僕らは彼女のレスビアン性を完全には信じられずにいた。本当はレスビアンではないのだが、夫への怒りから男性を忌み嫌うようになり、反動で気持ちが強く女性に惹かれていくのではないか、とどうしても考えてしまうのだ。

ところがそうした推測は全て間違いだった。その間違いはローザをレスビアンと思い込むところから起きていた。ローザは正確に言えば実はレスビアンではない。彼女は「バイセクシュアル」なのである。男も女も愛せるのがローザの性なのだ。そう気づくと全てが腑に落ちた。

彼女はジュリオと夫婦生活を続けながらも、女性もまた好きだったのだ。その真実が一気に表に出たということなのだろう。ではなぜ今になってローザの隠されていた感情が噴出したのか。それはいたって単純な理由によると僕は考えている。

つまりローザはもはや夫のジュリオが好きではなくなったのだ。彼女は夫に愛想をつかしてしまった。それが破局の原因なのである。要するにそれは、夫婦の一方に好きな人ができてしまい結婚生活が破綻した、というその意味ではごくありふれた話。ローザの好きな相手がたまたま女性だっただけだ。

未来の再生

ジュリオは、前述したように人生を投げたようになって今も立ち上がれない。僕は彼に「頑張れ」とか「過去を忘れてやり直せ」などとはとても言えない。彼は2重の衝撃に打ちのめされていると考えて気が重いのだ。気休めの軽い励ましなどとてもできない。

彼の中には妻に裏切られた(彼から見ればそうだ)ショックに加えて、その妻が同性愛者だったという困惑と不可解と驚愕があるに違いない。後者はもしかすると、妻の不貞(彼から見ればそうだ)という事実よりもずっと大きな不信と怒りを彼にもたらしているのではないか、とも考えてしまうのだ。

心に深い闇を抱えたジュリオがひどく疲弊してしまうのは仕方のないことだ。僕は友として静かに見守ってやることしかできないし、またそうしているのだが、そのうちに彼は復活するだろうともひそかに思っている。復活してほしいと強く願っている。

この「事件」ではジュリオとローザが育んだ一つの家族が壊れた。辛く悲しいことだがそれが現実だ。一方ではローザと恋人の新しい家族が生まれた。彼女はそこで生き生きと日々を過ごしている。「事件」の決算書は今のところはプラスマイナスゼロだ。一つが死んで一つが生まれたのだから。

だがこの先ジュリオが立ち直って、新しい連れ合いを見つけるなりして新生活を始めることができれば、+(プラス)が一つ加算される。そうなれば不幸も伴ったローザのカミングアウトは価値あるものとなるだろう。なにしろポジティブな事案が一つ増えるのだから。

同性愛者は多様性の象徴だが、彼らの存在は象徴であるばかりではなく、われわれの世界に多彩なアイデアや喜びや希望をもらす確実でポジティブな存在でもある。それが最重要なポイントだ。そこを踏まえて見れば、同性が同性を好きとか嫌いとかのどうでもいい議論は、まさに「どうでもいい」と思うのである。