米大統領選、共和党の候補者指名獲得に向けてのトランプ氏の進撃は止む気配がない。同時に先日のシカゴに続いて、アリゾナ州とニューヨークなどでも反トランプデモが起きた。前者では反トランプ派の人々によって道路が封鎖され、後者ではマンハッタンにある同氏所有の「トランプ・タワー」や「トランプ・ホテル」 前などで市民が抗議デモをした。そこでは「移民がアメリカを強くした」などのプラカードを掲げる人々が「人種差別主義者のトランプは退場しろ」などと叫んだ。
トランプ氏は米国内の、特に低所得、低学歴に代表される白人層の不満や怒りを捉えて支持を広げているとされる。それは目新しいことではない。あらゆる米大統領候補はそれぞれの支持層の不満や怒りや主張を背中に負って選挙戦を戦う。また彼の支持者には既成政治家への強い不信感があり、実業家で政治素人のトランプ氏に新鮮な変化を期待しているとも言う。それもまたまっとうな期待であり願いである。
民衆の不満にまず答えるのが真の優れた政治家だ。だからトランプ氏が大衆の不満の受け皿として評価されるのは、賞賛に値こそすれ決して悪いことではない。悪いのは彼のレトリックであり、主義主張の仕方であり、政策論争であり、行動規範である。つまり差別や偏見や不寛容を煽ることで「大衆の不満を吸い上げて癒している」と錯覚される、彼の全ての言辞のことだ。
トランプ氏はポリティカル・コレクトネス(政治的正当性あるいは妥当性 )の重要さを理解しない。理解しないどころか、それを「まやかし」だと糾弾し人種差別や排外思想や憎しみに満ちた言動をあえてする。支持者はそこに彼の本音を見たと感じて拍手喝采する。重大なのは人々がトランプ氏に拍手を送るポーズで、彼と同様に自らの差別偏見や憎悪の心根を吐露して狂喜しているように見えることだ。それはとても危険な兆候だ。
わかりやすく話そうと思う。ここから先はあえて差別用語も使うのであらかじめ了解をいただきたい。
たとえばカタワという言葉がある。この差別用語は幸いにも人々の認識を得て今は死語になった。だがこの言葉はつい最近まで、つまり日本人が「ポリティカル・コレクトネス」に目覚めるまで普通に使われ、体の不自由な人々を傷つけてきた。カタワという語はほかの差別用語と共に使われなくなり、他にも少なくない言葉が差別をあらわしたり、それを助長する言葉として意識されて消滅しようとしている。
それらの言葉に関して差別主義者たちは、自らが差別主義者であることを隠して、あるいはさらに悪いことには、自分自身が差別主義者であることにさえ気づかないまま、良くこう主張したりする。いわく、言葉を変えたからといってカタワが直るわけではない。言葉を変えて差別が無くなったと思うのは偽善でありまやかしだ、と。だがその非難こそ自らの差別の本性を隠そうとする偽善でありまやかしだ。
言葉を禁止することで、即座に差別や偏見がなくなるわけではもちろんない。それは変化の「きっかけ」なのである。あるいはきっかけにつながる重大な第一歩なのである。人々はカタワという言葉が使用禁止になっていると気づいて、「あれ?」と一瞬立ち止まる。そしてなぜそうなっているのかと考える。やがて調べ、確認する。
そうやってこの言葉が身体の不自由な人々を傷つける言葉だから禁止されていると知る。そこから差別撤廃への小さな一歩が始まる。人々が「あれ?」と一瞬立ち止まる行為が重要なのである。一人ひとりの一歩はささやかだ。だが無数の人がささやかな一歩を踏み出して、社会全体がまとまって動くことで巨大な流れが生まれる。そうやって差別解消への道筋ができる。
「本音を語ることがつまり正直であり正しいこと」と思いこんで、本音の中にある差別や偏見から目をそらしたり、それらを無くそうと努力をしている人々をあざ笑う者は、さらなる偏見や差別思想にからめとられる危険を犯している。トランプ氏が汚れたレトリックを縦横に使って選挙に勝利するということは、人類が長い時間をかけて学習してきたポリティカル・コレクトネスの哲学や知恵やコンセプトが、全て無駄でゲスでつまらないことだと認めるにも等しい。
彼が中国の不公平な貿易を責めるのは良い。また氏が日本の安全保障のただ乗りを非難するのも構わない。核に固執する北朝鮮の狂気を糾弾するのはもっともなことだ。またメキシコからの不法移民を指弾するのも彼の政治的スタンスを明らかにすることだから一向に構わない。だが彼が不法移民を批判するついでに、全てのメキシコ人を「レイプ魔」と断定して侮辱することは許されない。
さらに言えば、彼がイスラム過激派のテロを断罪しテロリストを殲滅すると叫ぶのも自由だ。自由のみならず正義でさえある。僕もその考えに賛成だ。だがそこで続けて氏が、テロリストと無辜のイスラム教徒を一緒くたにし一般化して、
(全員がテロリストだから)イスラム教徒をアメリカに入国させるな、と言い張るのはほとんど狂気の沙汰だ。
そうしたレトリックは、悪貨は良貨を駆逐するごとく、人々の心の中に差別意識と偏見と不寛容と憎しみを植えつけるのみだ。あるいは既に人々の心の中に巣食っているものの、ポリティカル・コレクトネスのタガで押さえ込まれていて、やがて矯正され強い正義心に変貌するかも知れない今は弱い精神を、完全に破壊してしまいかねない。
ポリティカル・コレクトネスは合衆国大統領どころか、われわれ全てが文明社会の一員として懸命に守り尊重しなければならない倫理基準であり人類の知恵だ。そうした規範の第一級の保護者でもあるべきアメリカ合衆国大統領が、こともあろうに率先して人類の叡智に唾吐くような人間であってはならない。だからドナルド・トランプ氏をアメリカ大統領にしてはならない、と繰り返し思う。