希望の光ハート

熊本地震に関連した2人の女優や有名タレントのツイッターの内容が、不謹慎だとしてバッシングを受けたと知った。調べてみると、炎上後に削除されたとかで一部しか読めなかったが、そこだけで理解する限り、投稿の内容は普通ならあまり人の気にさわるようなものではないと感じた。

東日本大震災のときもそうだったが、災害時には何事もそこに結び付けて過剰な反応をする傾向が日本人にはある。それは被災者への強い連帯や思い遣りという 形になって実を結ぶという利点もあるが、一方で誰もが常に100%そこに関心を持ちつづけているべきで、娯楽やジョークや笑いなどはもってのほか、不謹慎だ、などとして排撃しようとする負の側面もある。

それは画一思考や大勢順応主義に陥りやすい日本人の危険な性癖とも言える。だが同時に、他者の痛みを深くしん酌できる美質の一つでもあるように思う。それなので僕は---他者が日本人以外の人々である場合にも果たして同じ態度で臨むかどうかという懸念はあるものの---有名人のツイートに噛み付いて糾弾する人々を、行き過ぎだ、として一方的に非難する気にはなれない。

あまりにも意識高い系の高潔な人々、と皮肉交じりに言われたりもするそれらの批判者たちは、熊本の被災者への同情心や惻隠の情が強すぎるために、今はたぶんそれ以外の事案に心を砕いている余裕がないのだろう。彼らはおそらく悪い人ではないのだ。そういう思いは自分自身の実際の体験からもきている。

僕は先日、地震とは関係のない記事をブログに投稿し、それをさらにFacebookに転載した直後に、NHKの衛星放送ニュースで被災地の厳しい状況をあらためて知っ た。そのとき何の前触れもなく、また誰かの影響でも指摘でもなんでもなく、つまらない記事を書いてしまった。申し訳ないという気持ちがふつふつと湧き起こった。唐突な感情は消えることなく僕の中に居残った。

その心理を自分なりに分析すると、被災者に何もしてあげられない自分が恥ずかしいこと。せめてブログなりその他の媒体で連帯や気持ちのつながりを示す記事をいち早く発表しな かったことへの反省。被災地の困難と比較したときの記事内容のノーテンキ振りの情けなさ、などが紛糾し輻輳して自分がいやになった、というあたりだったと思う。

東日本大震災の折には連日のようにブログ記事などで自分なりの連帯の思いを記し、微力ながら被災地を応援するためのチャリティーコンサートも開催したりした。そのときと比べて 自分が何もしていないことがひどく後ろめたく思えたのだ。誰に指摘されたわけでもないのに僕がそんな引け目を感じたように、被災者や被災地への思いが特に強い皆さんは、そうではないように見える人々に苛立ちを覚えるのではないか。

彼らが自らの基準に照らし合わせて他者を非難するのは少し厳し過ぎるかもしれない。が、僕はそうした人々の辛らつを許してやってもいいのではないか、とも思うのだ。許すという表現は、上から目線風であるいは適切ではないかもしれないが、少なくとも僕は彼らの気持ちが分かるような気がしないでもない。

彼らの潔癖な態度は、甚大な災害に頻繁に直面する日本人が秩序を失わず、他人を押しのけたりせず、苦しさをじっと堪えて危機を乗り越えていく強さとどこかでつながっている。他者を容赦なく攻め立てる心は、心それ自体の弱さの発露である。だが、それが強さももたらすものであるなら、弱さという悲観には目をつぶって、強さという楽観のみを称揚したほうがより建設的であり健全なのではないか、とつらつら思ってみたりもするのである。