麻生太郎副総理兼財務相 が「90歳になって老後が心配とか、訳の分からないことを言う人がいる。一体いつまで生きているつもりだ」という趣旨の発言をしたという。
僕は麻生さんの発言を早速イタリア人の義母ロゼッタ・Pに伝えた。義母はまさに90歳。昨年、日本の「老人の日」に際して「今どきの老人はもう誰も死なない。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と言い放ったツワモノである。
「お義母さんの友達が日本にもいるよ」と前置きして、麻生さんの発言を「いつまでも生きてんじゃねーよ。邪魔なんだよ90歳」みたいな、ちょっとふざけた 表現に訳して聞かせたら、義母は麻生さんの名前を独特の調子で発音しながら、「Bravo(良くぞ言った)Taroaso(タローア・ソー) Giovanotto(青年よ)」とカカ大笑した。高齢の麻生さんも義母の前では若造なのだ。
真正老人の義母が先頃、激増する長寿者を「いつまでも死なない老人」と喝破した見識は、僕をう~むとうならせた。イタリアを含む欧米諸国はみな日本同様に長寿国だ。老人問題は、特に先進国の全てが抱える深刻な事案だ。それは財政問題にほかならない。
高齢者の増加で年金を始めとする社会保障費の膨張は止まることを知らない。例えばイタリアでは100歳以上の人の数が、2002年の5650人から昨年は
19000人にまで増えた。言うまでもなくそれは慶賀するべきことだが、国の財政という意味では破産にも等しい結果をもたらしかねない。いや、もうもたらしつつある。
財務大臣の麻生さんは、そんなシビアな現実を少しジョークを交えて指摘したのだ。言い方は洗練されていなかったかもしれないが、発言の全体を見れば正論中の正論だったことは明らかだ。発言の一部だけを捉えて、放言だ暴言だと噛み付くのはいかがなものか。
イタリア人の義母は「いつまでも死なない老人」発言の中で、『最近の老人は
《私を含めて》もう誰も死なない』と表現した。死なない他人を責めながらも、自らも問題のまったき当事者だという意識を明確に持っているのだ。
聞くところによると、75歳の麻生さんは講演の度に同じような話をして「かく言う自分も後期高齢者になってしまった」と締めて会場の爆笑を誘うらしい。つ まり自分も「いつまで生きてんだよ」的な高齢者だ、と自虐ネタを言っているのだろう。深刻な問題を笑いに変えた力量を、むしろほめてもいいくらいの名言ではないか。
麻生発言の一部だけを切り取った報道に早速、「(老人を侮辱されて)私は怒っている」と言った民進党党首の岡田さんや「人間の尊厳云々」と表明した共産党の志位委員長の発言など、選挙目当ての偽善的な言動などよりよっぽど正直で人間味に溢れている。
財政面もさることながら、日本における高齢化社会の問題の一つは、昔ながらの「敬老」の精神だ。年寄りを敬う心は大切に違いないが、年寄りがひたすら敬われていれば済む限度を超えて長生きをしているのに、その現実を無視して敬う「振り」をし続けていることだ。
老人問題は日本的「敬老精神」だけでは解決できない。90歳にもなればさすがに静かに余生を過ごしてもらうべきだろうが、もっと「若い」高齢者に関しては、就職や労働や年金のカット等を含めて現実的な対応がなされるべきだ。それは老人を切り捨てろ、という意味では断じてない。
長寿を祝いつつも、長寿社会の弊害を正面から見つめるべき時期が来た、という当たり前の話だ。そうすれば、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、見下したり存在を無視したりしているだけのくせに、「尊敬する高齢者の年金をカットしてはならない」などという偽善的な声も少しは消えて、より理にかなった政策が打ち出せる。
麻生さんはそれらのことを表現を変えて口にしただけ、というのは言い過ぎだろうか?