土人発言の真意はなんだろう

沖縄県高江で警備にあたる機動隊員が、抗議行動をする民間人に向かって「土人」と発言したことは、ひどく重大な問題でもあり“どうでもいい”ことでもある。その境目は、「土人」と口にした機動隊員が、一体どういう意識でその言葉を発したか、という点である。もしもそこに「沖縄差別」の意識があったなら、勿論それは軽くない問題だ。

そうではなく、言うに事欠いて、とっさに、売り言葉に買い言葉でそれが口をついて出たのなら、理由が何であれ言ってはならない言葉ではあるものの、大げさに騒ぎ立てるほどのことではないかもしれない。しかしながら、不思議なことがある。その20代の若い機動隊員は、もはや死語にも等しい「土人」という言葉を、なぜ突然思いついたのだろうか?年配の人間でも忘れているような言回しなのに。

発言を咎められて処分されるに際して、彼は「(以前)抗議の人が体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」 と説明したという。それを聞いて僕は笑ってしまった。下手な嘘に聞こえるからだ。悪知恵の働く上司か誰かが思いついて、マスコミ対策などと称して入れ知恵でもしたのだろうか。

その言い訳を信じるのは中々難しい。死語と考えても構わない「土人」という語がふいに、しかし見方によってはやすやすと口をついて出たのが、やはりどうにも不自然だ。気にならないと言えば嘘になる。多くの人々が指摘するように、彼の発言の背後に沖縄差別がある、と考えれば納得しやすいようでもある。

ドナルド・トランプ候補に通じるもの

僕はそこに思い至った際、まさに今このとき世界中の耳目を集めている米大統領選の、ドナルド・トランプ共和党候補を連想した。彼は平然とイスラム教徒や移民を差別し、黒人を見下し、日本人を含むあらゆる有色人種を否定し、宗教の自由を無視し、女性蔑視を隠さず、排外思想を核に憎しみと不寛容をあおる手法で選挙戦を戦っている。

機動隊員の中に差別意識があったのなら、彼はトランプ候補に通底するものを身内に秘めている、と見られても仕方がない。大げさなことを言うな、という非難の大合唱声が聞こえてきそうである。むちゃくちゃに目立つ存在の米大統領候補と、職務に忠実なだけの沖縄の田舎の一機動隊員を一緒くたにしてはかわいそうだ、と。

その非難にはこう答えようと思う。「普段から意識していたにせよいなかったにせよ、彼の中に沖縄差別感情があったのなら、機動隊員はトランプ候補を熱狂的に支持している一部の人種差別主義者らに似ていなくもない」と。そして人種差別者に似ているとするならば、彼はやはり同類のトランプ氏にも似ているのである。

僕が機動隊員の「事件」を知って突然トランプ氏を連想したのは、もちろん彼が今現在ひんぱんに世界中の話題になっていて、僕自身もその動向を気にしているからである。人種差別主義者や排外ヘイト愛好家は、日本にもここイタリアにも多くいる。世界中にもさらにたくさんいる。トランプ氏はその一人に過ぎず、機動隊員もまた然り。その意味では特別な存在ではない。

暴力が「土人」という差別語を作った

英語のNATIVEに近い「土人」という日本語に、何ゆえ差別の意味合いがこもるようになったかを考えてみると、その原点はかつての植民地主義に基づく日本人の思い上がりだったと知れる。南洋などの土着の民衆を日本人が未開の野蛮人と見下したのは、日本が軍隊を擁して彼らの土地を侵し抑圧したからである。つまり暴力によって彼らを「制圧」した事実が優越意識を生んだ。

かつて欧米人に土人と蔑まれていた日本人自身が、西洋を真似て「文明技術」あるいは「進歩」を手に入れて、まだそれを手にしていない人々を見下し差別した、というのが歴史の真実である。 そこでの拠り所は常に軍事力だった。そして軍事力とはつまり経済力であり技術力だった。要するに進歩とは軍事力、つまり暴力の別名でもあったのだ。

それは日本の先を行っていた欧米列強も同じだった。というよりも、日本は彼らを猿真似したに過ぎない。猿真似で得た西洋伝来の技術力によって、日本は富国強兵を成し遂げ、アジア諸国を侵略した。だが先達の欧米列強の驕りは、植民地の独立によって挫かれた。独立後、元植民地の多くの国々は経済力をつけ、従って政治的にも強くなって欧米の力は相対的に弱まっていった。

欧米の劣化に伴って、彼らに見下されてきた人々は抗議の声を上げ始めた。それを受けて欧米内の優越意識も徐々に崩壊し、世界の後進地域や民衆を対等に見ようとする動きが加速した。第二次大戦の混乱を経て経済復興を成し遂げていた日本は、欧米列強が植民地を失うことで劣化を始めたのを追いかけて、ここでも彼らと同じ運命を辿った。

ポリティカル・コレクトネスの誕生

欧米の劣化に伴う世界の変化の象徴が、差別や偏見や抑圧を是正して平等な社会を築こう、という人々の良心の目覚めだった。そこから政治的正義、いわゆるポリティカル・コレクトネスが生まれた。欧米が驕りきった過去を反省し、人間としてより“上等”になる努力をすることが政治的正義の正体であり、人間としてより“上等”になるとは、知性の進化であり知識の深化のことである。

人間社会の進歩を象徴的に示すポリティカル・コレクトネスを理解しない者、あるいはそのことに無知な人間、社会の進歩から取り残された危険で幼稚な人々は、進歩の対義語的な意味での今日の未開人、つまり死語の「土人」だという例え方さえできる。その代表的な一人が、今まさに世界の話題の台風の目になっている米大統領選、共和党のドナルド・トランプ候補だ 。

欧米を追随する日本は、世界の大きな変化への対応がいつものように遅れてしまった。世界がよく見えない島国根性が災いし、ポリティカル・コレクトネスの習熟でもまた欧米の後塵を拝したのだ。英国と同じ島国でありながら、英国の開明性を持たない「いつもの」日本の不手際である。しかしながら、それでも、日本も変わった。

遅ればせながら近年は、日本でも差別や偏見や疎外を社会から無くそうと多くの人が考えるようになり、また行動を起こした。日本には現在そうした風潮に敵対する排外主義やヘイトスピーチまたヘイトアクションなどが増えつつある。だが大勢はポリティカルコレクトネスを容認し、さらに拡大する方向だろう。そうであってほしい。

ポリティカルコレクトネスは差別の即時消滅をもたらす魔法ではない

人はそれとは知らずに、あるいは逆にそれと意識して、差別語を用い差別的な行動をし、差別を当たり前にして生きてきた。だが前述したように時代と共に人は「良心に目覚め」、 差別をしない、差別用語を用いない、などの知恵を獲得した。繰り返しになるが、その知恵がいわゆるポリティカル・コレクトネスだ。再び言う、日本は欧米に遅れはしたものの、まがりなりにもこれを獲得した。

差別的な言葉を使うべきではない、という風潮を快く思わない差別主義者たちは、自らが差別主義者であることを隠して、あるいはさらに悪いことには、自分自身が差別主義者であることにさえ気づかないまま、こう主張する場合がある。いわく、言葉を変えても何も変わらない。言葉を変えれば差別が消えて無くなると思うのは偽善でありまやかしだ、と。

だがそれらの非難こそ自らの差別の本性を隠そうとする彼らの偽善でありまやかしだ。言葉を禁止することで即座に差別や偏見がなくなるわけではもちろんない。それは変化の「きっかけ」なのだ。あるいはきっかけにつながる第一歩だ。人々はある言葉が使用禁止になっていると気づいて、「あれ?」と一瞬立ち止まる。そしてなぜそうなっているのかと考える。やがて調べ、確認する。

そうやってその言葉がある状況に置かれている人々を傷つけたり、不快感を与えたり、悲しませたりするから禁止されているのだと知る。そこから差別撤廃への小さな一歩が始まる。人々が「あれ?」と一瞬立ち止まる行為が重要なのである。一人ひとりの一歩はささやかだ。だが無数の人がささやかな一歩を踏み出して、社会全体がまとまって動くことで巨大な流れが生まれる。そうやって差別解消への道筋ができる。

高江という日本の苦悩

沖縄の高江で言われた「土人」という語は、それが沖縄だったからより甚大な意味を持ってしまった。過剰過ぎるほどの意味が付されてしまった、とも言えるだろう。 そこでの真実は恐らく、一時的な感情に絡めとられた機動隊員が思わず口にした失言、というあたりだろう。失言だから、発言そのものは許されるべきだ。だがその失言を生んだ根っこに差別感情という歪みがあるなら、その歪みは必ず是正されなければならない。

発言者の根っこにあるかもしれない歪みの発露の一つは、沖縄を含めた日本の防衛の為に基地は必要だ、だから沖縄は我慢しろ、という考えに通底するいわゆる構造的沖縄差別の可能性だ。沖縄は基地に関しては十分過ぎるほどに我慢している。それどころか我慢できない部分がある。だから、それを沖縄以外の全国の自治体も負担してくれ、というまっとうな主張が無視されている。

無視されるばかりではない。そこに「沖縄には補償金が降りている。つべこべ言うな」というネトウヨ・沖縄ヘイトスピーカーらの得意な罵倒が加わる。しかし沖縄は47都道府県の中で30番目あたりに位置する納税県であり人口1人あたりの政府補助金受領額は10位前後だ。あたかも沖縄が、全国でもっとも多い過剰な補助金を国からもらっている、というようなネトウヨ・ヘイト一党の印象操作にも近い主張は当らない。

沖縄に同情するのではなく自らに正直になれ

沖縄が言っているのは不公平を解消しろ、という一言に過ぎない。そしてそこで言われる不公平とは差別と同義語だ。「土人」発言の中にその差別と同根の思い上がりがあるのなら断じて許されるべきではない。 差別とは、差別されている側が差別だと言う限りどこまで行っても差別である。あるいは差別されていると感じる側が差別されていると「感じて」いる限り、そこには差別があるのだ。

その差別は差別している側には感じられない。だから差別している側は差別はない、と言いたがる。時には差別者と規定されることに憤慨したりもする。 だが、差別に関する限り差別する側の感情は関係がない。差別されている側、あるいは差別されていると感じる側、の感情だけが問題なのである。

なぜなら彼らが差別されていると感じたり、あるいは違和感を持っている限り、そこには何かがある。その何かの正体が差別なのである。その差別が無ければ、差別されている側は、差別している側と同じように「何も感じない」はずなのである。そう考えてみれば、差別する側がよく口にしたがる「被害者意識」という言葉も、差別する側の思い違いである可能性がある。

差別の正体はあなた自身だ

最後に付け加えたい。そこに沖縄差別感情があったにしろなかったにしろ、「土人」という言葉によって喚起された議論は歓迎されるべきことだ。 「土人」の一言によって沖縄問題、特に基地負担問題への理解が増したり、あるいは沖縄差別が実際にあるのだと人々が認識したのなら、それは徹頭徹尾良いことである。

またたとえそこに沖縄差別がなかったとしても、人々が「土人」という言葉を無分別に使ってはならない、と意識し始めたのならそれもやはり歓迎するべきことだ。 なぜならわれわれは、そこからまた開明や解放や寛容や友誼に向かって一歩を踏み出すことができるからである。 差別や偏見という膿は溜め込めば悪化するばかりだ。表に出して議論をして、皆が力を合わせて除去するべきものなのである。