イタリアを含む欧州のほぼ全域は今日から冬時間に変わった。この時期は寒さが増して冬の始まりが実感されると同時に宗教的にも感慨深い季節である。
明日10月31日はハロウイーン。ケルト族発祥のその祭りを最近、遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなった。
翌11月1日はカトリック教会の祝日の一つ「諸聖人の日」。日本では万聖節(ばんせいせつ)」とも呼ばれるこの日はイタリアの旗日。
続く11月2日は「死者の日」、と祝祭が目白押しである。
「死者の日」という呼び名は日本語ではちょっとひっかかるニュアンスだが、意味は「亡くなった人をしのぶ日」ということであり、日本の盆や彼岸に当たる。
ところで11月1日の「諸聖人の日」は、カトリックでは文字通り全ての聖人をたたえ祈る日だが、プロテスタントでは聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」をたたえ祈る日のことである。
プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考える。聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見る。処女懐胎を信じないからだ。その意味ではプロテスタントは科学的であり現実的とも言える。
聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をする。権威主義的ではないのがプロテスタント、と僕には感じられる。
一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をする。そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれる。
カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらした。それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、対立も顕在化していった。
カトリックは慈悲深い宗教であり、懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいる。プロテスタントもそうだ。キリスト教徒ではない僕は、両教義を等しく尊崇しつつ、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントの11月1日により共感を覚える。
また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じる。それでは僕は反カトリックの男なのかというと、断じてそうではない。
僕は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」である。