
ヤラさんの写真と棺
「13歳少女ヤラ殺害事件」は、2010年末の事件発生から2014年の犯人逮捕を経て、2016年7月の結審に至るまでのおよそ6年間、一貫してイタリア中の関心を集め続けた。
事件は当初から偽証や誤認逮捕で2転3転するなど、マスコミの強い関心を引いた。やがて22000人ものDNAを検査する前代未聞の大掛かりな捜査が始まって激しい報道合戦を呼び、いつまでも色あせることがなかった。
DNA捜査で捕まった犯人は、彼の母親と10年前に死んだ男との間の不倫で生まれた婚外子であり、しかも母親は容疑者の父親、つまり自らの夫は言うまでもなく、容疑者自身にも誰にもその事実を告げずに隠し通してきた。
そのいきさつが明らかになると、イタリア中のメディアは複雑かつ奇抜な交流関係や運命に彩どられた人間劇を「遺伝子(DNA)メロドラマ」と命名して連日騒ぎ立てた。
ドラマは、後半の主役となった不倫の母エステル・アルヅィッフィの登場でますます佳境に入り、妻に不貞を働かれた上にそこでできた他人の子を40年以上も実子と思い込まされていたエステルの夫、ジョバンニ・ボッセッティへの同情や嘲笑や揶揄や憐憫などが飛び交った。
そこに、犯人をかばって決して見捨てようとしない彼の妻の動向や思いや発言、さらに父親の生前の不貞と、少女殺害犯人が異母兄弟だったことを発見する、グエリノーニ家の人々の驚愕や、困惑や、怒り等々がからまって、ドラマはいつまでたっても魅力を失わなかった。
騒ぎが大きくなるにつれて、最大の被害者であるヤラさんの両親と家族への思いやりやケアは往々にして吹き飛ばされて、ワイドショーも真っ青の煩雑且つ無責任な、だが同時に第三者にとっては面白すぎる出来事や秘密が次々にあばかれた。

犯人マッシモ・ボセッティ
被害者の少女と犯人の2人よりもワイドショーの話題を集めたのは、なんといっても前述の不倫の母エステル・アルヅィッフィ。夫を裏切った密通で身ごもりながら、生まれた双子の子供は夫ジョバンニ・ボッセッティの子だと白を切り通したツワモノである。
自らの不貞の結晶である子供が殺人者となったために、過去の悪行が全て明らかになった彼女だが、さらに驚くべき事態が待ち受けていた。なんと彼女の末っ子もまた不倫の末の非嫡出子であることが明らかになったのである。
エステルの次男、つまり犯人の弟は、夫ジョバンニ・ボッセッティの子供ではなく、かといってかつての不倫相手グエリノーニの子供でもない。新たな第三の男との間にできた子供だったのだ。
多情な女、エステル・アルヅィッフィは、そうやってますますワイドショーの格好の花形キャラになって行った。
ワイドショーや新聞社会面やゴシップ雑誌はもちろん、シリアスなメディア媒体も長期間に渡って報道し続けた騒々しい事件は、犯人の終身刑判決でいったん終息した。だが、このケースはまだ終わっていない。被告側が控訴したからだ。
「遺伝子(DNA)メロドラマ」は、今後もイタリア国民の格好の噂話のネタになり続けるだろう。
ワイドショーや三面記事も嫌いではない僕は、できれば彼らと同じ興味でそれを見ていくつもりだが、実は僕はこの事件の捜査のあり方を、少し大げさに言えば「目も眩む」ほどの驚きと共に見守ってきた。
捜査の展開は英語の媒体でも逐一伝えられたから、もしかするとイタリア人はもちろん、世界中に僕と同じ感慨を抱きながら見つめた人々がいたかもしれない。
捜査の疑問点並びに瞠目する点は次の通りだ。
1.警察は「地元に住む男性のDNAをシラミつぶしに調べた」が、実は地元とはどこからどこまでを指すかは曖昧だった。対象になった地域は島という名だったが、それは実際の島ではなく、ベルガモ県からミラノ一帯へ、さらにはイタリア半島全体にまで広がる陸続きの場所だった。
2.またシラミつぶしにDNA検査を敢行したことは、大胆だが極めて杜撰(ずさん)な動きでもあった。なぜならマスコミが指摘したように、犯人は地元の人間ではない可能性も大いにあったからだ。
3.ジュゼッペ・グエリノーニの実子(摘出子)のDNAが犯人のそれと合致しないと判明したとき、ならば彼らの異母兄弟がいるのではないのか、という思考の広がり方は優れた、あるいは結構ブッ飛んだ発想のように僕には感じられるが、どうだろうか。
隠し子がいればそれは男の死亡のさらに30年ほど前の不倫でできた子だから、父親を疑うのは自然のように見える。が、DNA確認作業が行き詰まった段階で存在しない父親を疑うのは難しい。普通はそこで捜査員らがあきらめて事件は迷宮入り、という様相を呈するのがありがちな結末ではないか。
たとえそうではなくても、10年も前に死んだ男の墓を掘り起こしてまでDNAを調べる気概は、いずれにしても瞠目に値すると僕には思える。
4.再び10年も前に死んだ男の、いるかいないかも分からない愛人探しを敢行するメンタリティーも面白い。しかもバスの運転手だったグエリノーニの地元に愛人がいる、というアバウトな前提での調査なのだから、もはや蛮勇である。仮に愛人がいたとしても、地元の女性ではない可能性は幾らでもあったのだから。
それらのほころびを抱えつつ捜査を敢行したイタリア警察の剛毅と独創性。22000人ものDNAを調べまくったねばりと緻密。だが対象地域を無理やり限定した驚くべき杜撰さと破天荒。
それらはまるで「バカと天才は紙一重」の諺を髣髴とさせる、まさにイタリア的なアクションであるように僕の目には映る。しかもそれは見事に成功した。彼らの功績は、今後の世界中のDNA関連捜査にも大きな道筋をつけたのではないか。
実はそれに似た事例はイタリアには多い。直近の例を一つ挙げれば、犠牲者ほぼ300人が出たイタリア中部地震である。あの時は多くの建物も崩壊した。完璧な耐震設計を謳っていたにもかかわらずにだ。
ところがイタリアには建設から数百年、はなはだしい場合は2000年も地震や風雪に耐えて生き延びている建築物もまた多い。
優れた建築技術がありながら、たとえば日本ならば、ほとんど被害が出ない程度の揺れの地震でも崩れ去る建物を造る稚拙が、イタリアには厳然として存在する。「突出しているが抜けている」のである。
「13歳少女ヤラ殺害事件」の捜査で遺憾なく発揮されたのもそうしたイタリア的メンタリティーだ。警察の捜査法はまさに「突出しているが抜けている」あるいは「抜けているが突出している」を地で行くものだった。
そのイタリア的捜査法に乾杯!という思いになるのは僕だけだろうか?