僕は故国日本の次にはヨーロッパが好きで、さらにアメリカも好きで、大学卒業後すぐに日本を出てからは英国、米国、そしてここイタリアに移り住み、その他の多くの国々を訪ね、勉強し、もちろん仕事もたくさんこなして来た。好きな国々なのでいつも楽しく過ごしてきたのだけれど、一つだけとても辛いものがある。それが社交である。

社交とは何か。それは「おしゃべり」のことである。つまり会話の実践場がいわゆる社交である。僕にとっては社交こそ、特に西洋で生きる時の一番疲れる気の重い時間だ。しかもそれは欧米社会では、社会生活の根幹を成す最も重要なものの一つと見なされる。社交、つまり「おしゃべり」ができなくては仕事も暮らしもままならない。

昔、日本には、三船敏郎が演じる「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルがあった。あのキャッチフレーズは、沈黙を美徳とする日本文化の中においてのみ意味を持つ。あれから時間が経ち、世界と多く接触もして日本社会も変わったが、沈黙を良しとする風潮は変わっていない。

一方欧米では、男はしゃべることが大切である。特に紳士たる者は、パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、 自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、一生懸命にしゃべらなければならない。「男はだまって、つべこべ言わずにしゃべりまくる」のが美徳なのである。

例えばここイタリアには人を判断するのに「シンパーティコ⇔アンティパーティコ」という基準があるが、これは直訳すると「面白い人⇔面白くない人」という意味である。そして面白いと面白くないの分かれ目は、要するにおしゃべりかそうでないかということである。

ことほど左様にイタリアではしゃべりが重要視される。イタリアに限らず、西洋社会の人間関係の基本には「おしゃべり」つまり会話がドンと居座っている。社交の場はもちろん、日常生活でも人々はぺちゃくちゃとしゃべりまくる。社交とは「おしゃべり」の別名であり、日常とは「会話」の異名なのである。

言葉を換えれば、それはつまりコミュニケーションの重大、ということである。コミュニケーションのできない者は意見を持たない者のことであり、意見を持たないのは、要するに思考しないからだ。つまり西洋では沈黙はバカとほぼ同じ意味合いを帯びて見られ、語られる。怖いコンセプトなのである。

西洋人のコミュニケーション能力は、子供の頃から徹底して培われる。家庭では、例えば食事の際、子供たちはおしゃべりを奨励される。楽しく会話を交わしながら食べることを教えられる。日本の食卓で良く見られるように、子供に向かって「黙って食べなさい」とは親は決して言わない。せいぜい「まず食べ物を飲みこんで、それからお話しなさい」と言われるくらいだ。

学校に行けば、子供たちはディベート(討論)中心の授業で対話力を鍛えられ、口頭試問の洗礼を受け続ける。そうやって彼らはコミュニケーション力を育てられ、弁論に長けるようになり、自己主張の方法を磨き上げていく。社交の場の「おしゃべり」の背景にはそんな歴史がある。それが西洋社会だ。

沈黙を美徳と考える東洋の国で育った僕は、会話力を教えられた覚えはない。おしゃべりな男はむしろ軽蔑されるのが、いかに西洋化されたとはいえ日本の厳然たる日常だ。男は黙ってサッポロビールを飲んでいるべき存在なのだ。自己表現やコミュニケーションを重視する西洋文化とは対極にある。

日本の風習とは逆のコンセプト、つまり「‘おしゃべり’がコミュニケーション手段として最重要視される」西洋社会に生きる者として、僕は仕事や日常生活を含むあらゆる対人関係の場面で、懸命に会話術の習得を心がけようと努力してきたつもりである。

おかげで僕は日本人としては、パーティーや食事会などでも人見知りをせず、割合リラックスしてしゃべることができる部類の男になったのではないかと思う。ところがそれは、西洋人の男に比べると、お話にもならない程度のしゃべりに過ぎないのだ。子供時代から会話力を叩き込まれてきた彼らに対抗するには、僕は酒の力でも借りないと歯が立たない。

ワインの2、3杯も飲んで、さらに盃を重ねた場合のみ、僕はようやく男たちのおしゃべりの末席を汚すか汚さないか、くらいの饒舌を獲得するだけである。

その後は知らない。彼らのしゃべりに圧倒されて、負けないゾと頑張って、頑張るために杯を重ねて、絶対にやってはいけない「酒に呑まれて」しまってはじけたりして、やがて人々のヒンシュクを買ったりもするのである。