2016年大晦日、朝の11時過ぎから日本と同時放送のNHK紅白歌合戦を見た。日本と8時間の時差があるイタリアでは、衛星を介しての生中継はそんな時間になるのだ。
見ている途中も、見終わってからも、「紅白歌合戦、大丈夫?」と思った。
僕は紅白歌合戦をよくイタリアの「サンレモ音楽祭」に重ね合わせて見る。2者はマンネリ感と時代遅れ感がよく似ていて、視聴率も下がり気味だが、依然として決して無視できない人気を保っている。
また僕は両者をそれなりに評価していて、サンレモ音楽祭はあまり見ないものの紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている。でも、NHK大丈夫?と心配になったのは今回が初めてだ。
番組の支持者の僕が不安になったということは、それを強烈に支持した人もまたきっと多かったに違いない。そこに期待しつつ、圧倒的にネガティブな感想を持った自分の意見を書いておくことにした。
僕は「シン・ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」の2要素がひどく気になった。特にゴジラのシークエンスでは僕の頭の中に「?」マークが幾つも点灯した。作っているスタッフが、その場面を信じていない、あるいは愛していない、と感じたのだ。
紅白歌合戦はエンターテイメントなのだから、バカになるなら真剣にバカになるべきだ。あるいはスペクタクルを目指すなら、批判を覚悟で制作費をどんと使って大イベントを演出するべきだ。成功すれば批判は必ず賞賛に変わるのだから。
ゴジラのエピソードにはそのどちらもなかった。スタッフは真剣ではなく、制作費もお粗末なものであろうことが分かった。
スタッフは、もちろんプロとして真剣に仕事をした。だが彼らはゴジラが渋谷に向かって進攻していて、歌でやっつけることができる、というコンセプトを信じてなどいなかった。つまり本気でバカになり切っていなかった。だからその部分では真剣ではなかった。
そのためにゴジラの場面はアイデアだけが先走って、出てきたものはアマチュアの演劇並みの稚拙なシーンの連なりになった。言い換えれば「クサイ話」になった。視聴者はたぶん僕と同じく「?」マークを覚えながら、NHKがやることだから理解できない自分が悪いのだろう、と思って目をつぶったのではないか。
何もかもが中途半端で、結果、みすぼらしくなった。演出スタッフに「照れ」があり「気取り」があるのが最大の失敗だった。言葉を変えれば演出スタッフ(特にディレクターとその周りのプロデュサー)は、荒唐無稽な話を荒唐無稽な話、と意識したままエピソードを作っていた。
あるいは(こんなバカ話は実は俺たちは信じていない)という思いがありありと出ていた。制作者自身が信じていない話を、視聴者が信じるわけがない。しかしポイントは視聴者がその内容を信じることではなく、「制作者がバカ話を真剣にバカになって作っている」と視聴者が感じるかどうかだ。
制作者がバカ話を真剣に捉えて、誠心誠意、気持ちを込めて真剣に作っていることが分かれば視聴者は納得し、面白がり、心を揺さぶられる。バカ話であればあるほどスタッフは「真剣にバカになる」必要がある。バカ話をふざけた軽い気持ちで作ってはならないのだ。
つまり、「すばらしい歌を聴くとゴジラは死ぬ(ゴジラのパワーがなくなる)」というコンセプトをスタッフは、特に演出家は、腹から信じて真剣に作らなければ道半ばになって失敗する。ゴジラが歌で破壊される、というアイデアが信じられないなら演出をするべきではない。信じなければうまく演出ができないからだ。
スタッフの「照れ」はなかったが、「タモリとマツコ」も制作コンセプトが徹底しない大失策だったと思う。面白くしたい、という作り手の強い思いは十分に伝わってきた。同時に「どうだ面白いだろう」という彼らのドヤ顔もそこに見えるようでシラけた。
それらのシーンは恐らく、打ち合わせやリハーサルの段階では面白かったのだろう。タモリとマツコのやり取りに、もしかすると、出演者も制作スタッフも結構笑ったのではないか。それで彼らは自信をもってあの恐ろしくも退屈で、場違いで、未成熟なシーンを電波に乗せてしまった。
下手くそなディレクターである僕の、大して多くもない似たような演出の体験から言わせてもらえば、制作現場でスタッフが笑い転げるコメディーのシーンは、実際に電波に乗るとたいていコケる。スタッフが楽しんでしまって視聴者が見えなくなるのだ。視聴者を笑わせたり楽しませたいなら、スタッフは現場で笑ったり楽しんではならない。苦しむべきだ。制作の真剣とはそういうことだ。
NHKの優秀なスタッフがそのことを知らない筈はない。だが彼らは見事にその落とし穴にはまったようだ。スタッフは、あるいは現場で、タモリのカリスマ性に催眠状態にさせられたのだろうか。そうでもなけれなあれだけつまらないシーンやエピソードが、あれだけ自信たっぷりに放送されるわけがない、と感じた。
念のために言っておくが僕はNHKのファンである。ファンとはプロのテレビ屋としても、また一視聴者としても、という意味である。僕は下手くそなディレクターながら仕事でもNHKには大いにお世話になった。
だから言うのではないが、NHKは世界の公共放送の中でも優れた番組を作る優れた放送局の一つだ。報道ドキュメンタリー系の番組は、イギリスのBBCに肉薄するものも多いと思うし、ドラマも面白い。エンターテイメントも質の良いものが多い。
一方NHKは、たとえば先ごろ退任が決まった籾井さんのようなトンでも会長がいたり、BBCとは違って政権に臆することなく物申すことができなかったり、予算の問題で批判を浴びるなど、もちろん課題も多い。しかし、例えばここイタリアの公共放送RAIなどに比べればはるかに良心的だ。
僕はRAIの民営化には賛成だが、NHKの民営化には反対の立場でさえある。RAIはドキュメンタリーや文化番組が極端に少なく、トークショーやバラエティ番組が異様に多い。また視聴者に受信料を課しながらCMもがんがん流す、といういい加減な公共放送局だ。その部分ではNHKには比ぶべくもない。
また、民放がたくさんある日本で、もう一つの民放などいらない、というのも僕がNHKの民営化に反対する理由だ。NHKは民放の持つしがらみから自由だからこそ価値がある。ある種の人々からの強い批判を覚悟で断言するが、NHKは日本の宝だ。BBCが英国の宝であるように。
そこを確認した上で言いたい。紅白歌合戦は開き直って徹底した改革ができないのなら、規模を縮小しターゲットも絞って再出発したほうが良いと思う。たとえば番組のコンセプトを若者向けか年配者向けかに決め、それに合わせて演歌や懐メロ三昧なり、ポップス系なりの歌番組に徹底するなどの方法だ。
多様性が進んだ今の時代に、「国民の大多数」によく受ける歌番組なんてある筈がない。存在しないコンセプトを追いかけて規模を無理に広げるのは苦しい。ここイタリアの紅白歌合戦、前述の「サンレモ音楽祭」も時代遅れになった。改革は失敗しつづけ、老舗番組は「ただ存続しているだけ」、というふうになった。
紅白歌合戦も、毎年姑息な「変化努力」で誤魔化すことはやめて、思い切って番組を縮小し、前述したようにターゲットを視聴者の一定層に絞り込んで出直したらどうだろうか。中途半端な改革は結局、必ず中途半端な番組しか生み出さないのだから。