紅白歌合戦を批判した前記事に対しては、「仲宗根さんは紅白が嫌いなんですね、悲しいです」という便りもいただいた。読者の方からのコメントは、いつもとても勉強になる。勉強にならなくても示唆に富んでいて、考えるヒントになることが多い。何よりもコメントを下さるということは、僕の下手クソな文章をその方なりにきちんと読んでくれた証拠だから、いつも有難く嬉しい。
しかし「紅白歌合戦が嫌いなんですね」というコメント内容にはちょっと参った。嫌いどころか、僕は紅白歌合戦は好きだからだ。そのことは記事の中でも「~紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている 」「番組の支持者の僕が~」などの表現を筆頭に、論考の随所に示した積もりだった。
2016年の紅白歌合戦に関する僕の批判は、視聴者としてよりも、テレビ番組を作るプロのテレビ屋の立場からの批評だった。それでいながら、あたかも
「視聴者の立場からの不満」でもあるような書き方もしてしまったようだ。そこは撤回させていただくと同時にお許しを請いたい。
ここで前記事の批判を一言にまとめれば、要するに「良いアイデアが時間や制作費などの首木のせいできちんと実現されていない。それを知りながら、僕の見解では「知らない振り」で、あるいは「視聴者は気づかないだろう」という、見方によっては思い上がりとも取られかねない心で、「番組を構成し実践した過誤」ということだ。
要するに演出スタッフは、彼らが思いついたすばらしいアイデアである「ゴジラを(紅白歌合戦の)歌で退治する」というコンセプトを、バカになって子供のように純粋に、明るく楽しくバカバカしく提供することができなかった。つまり、繰り返しになるが、「バカになり切れていなかった」ということだ。
また、タモリ&マツコは、そこに「置物」として置いておいても面白いマツコを、タモリと共に「ブラタモリ」させることで受けを狙ったものの、恐らくリハーサルに多くを割けなかった時間の制約と、「一体何を見せたいのだろう?」と最後まで疑問が残った、設定の根本的な誤りでコケた。
ブラタモリは歩いて色々なことを「発見」するのに、コウハクタモリは番組の外で「迷子」になった。それは2人が紅白会場に入れなかったという設定のことではなく、シークエンスの全体が場違いで、木に竹を継いだ形の深刻な構成上の失敗、という意味だ。換言すれば台本が熟(こな)れていなかった。
あれこれといいたいことを言ってきたが、何事につけ実際に制作をすることと批評は別物だ。テレビでも文章でも映画でも、あらゆる創作は難しい。それを批評するのは、引退した平幕力士が横綱大関の相撲を上から目線で解説するのに似て、ちょっと悲しく滑稽でもある。
大相撲の解説者よりは現役力士のほうが大変だ。テレビ番組の批評家よりは制作現場のスタッフのほうが苦しい。現実に作っているからだ。そしてあらゆる創作は「作った者の勝ち」、というのが実際に制作現場に立ってきた僕の実感だ。
批評家がいなくても制作者は存在できるが、制作する者がいなければ批評家は生きていけない。批評する対象がないからだ。そういう意味では批評家ほど軽い悲しい存在はない。しかし、批評家はまた、制作者を褒めたりけなしたりすることで創作を鼓舞する、創作周りの重要な「創作構成要素」でもあり得る。
僕は紅白歌合戦という大番組が、毎回毎回懸命に進化を試みる姿に頭が下がる思いでいる。2016年は特に懸命さが際立っていた。テレビに関しては、僕は実作者で批評家ではないが、微力且つ僭越ながらあるいは次の進化の試みに資するかもしれない、と考え批評じみたものを書いてみた。
ここからは僕が紅白歌合戦を好きな証拠を挙げて、冒頭の読者の方の疑問に応えたい。
マンネリといわれる紅白歌合戦は、僕にとっては実はいつも新しい部分がある。つまり日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日の紅白歌合戦を見て今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多いのだ。例えば先日の紅白歌合戦では、混成(?)AKB48やRADIO FISHや桐谷健太などを初めて知った。
その流れでいえば、過去にはPerfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、斉藤和義なども紅白歌合戦で初めて見て、「ほう、いいね」と思い、それ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。
数年前はこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聞く先から「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。
また、懐メロという言葉はもはや死語かもしれないが、かつてのヒット曲や歌い手をあらためて見、聞くというのも疑いようのない紅白の楽しみの一つだ。極めて個人的なことをいえば、若いころはほとんど興味がなかった演歌の良さを知ったのも、僕の場合は紅白歌合戦だ。
先日の紅白歌合戦でも歌の部分は例年通りに楽しんだ。好きな歌はじっくり聴き、そうでもない場合は流して眺めた。何事もないいつも通りの年末なら一杯やりながら紅白を楽しみ、ゆく年くる年を見て一年を終える、という陳腐なパターンが僕の大晦日の習わしでもある。実に日本的なのだ。
世界各国の日本人移民の間には、日本の伝統や文化が日本以上によく残っていることが多い。故国日本への思慕が深いからだ。紅白を楽しむ僕の中にも、そんな移民メンタリティーが育ちつつあるのかもしれない。だから紅白の“新しい試み”だった「ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」に違和感を覚えたのかも、とも考える。