2011年3月2日、僕はこのブログを始めた。

それからわずか9日後に東日本大震災が発生した。

衝撃の中で僕はわけも分からないまま、震災への思いを思いのままに書いた。

わけも分からないが、ブログとは日記のことで、従って毎日なにかを書くべきだと理解していた。

なので、当時は毎日なにかを書こうとし、また書かなければならないと思った。

そうやって懸命に震災にまつわる思いや、出来事や、またそれとは関係のないことを書き続けた。

その頃の僕の本気の願いは「毎日ブログを更新する」ことだった。

だが毎日書くことは時間的にもまた気分的にも無理だった。

今になってみると、その願いは笑い話だ。

毎日なにかを書けるなら書けばいい。

でも毎日書かなくちゃ、と脅迫観念に捉われるのは愚の骨頂だ。

毎日書かなくちゃ、ではなく、毎日書くことがあって、一心不乱に書くうちに気づいたら毎日書いていた、という風になれば良いのだと気づいた。

葛藤しながら書いているうちにいくつかの論壇に寄稿する機会も得た。

そうやって「則ブログ」の記事は公けにも活字になった。

公けになると、記事によっては個人ブログよりも多くの読者に出会うケースも出てきた。

そのあたりから自分の文章のスタイルが変わった。

大上段に構えるテーマや思いが多くなり、文体も硬くなったと感じる。

反省。

ブログの良さとは、書く側と読む側の親密な関係なのではないか、と今さらながら考えるようになった。

親密な関係とは、日常茶飯事も伝え合える「私的」関係ではないか。

小説でいえば「私小説」。

私小説はぶっちゃけつまらない、と最近の僕は思う。昔はいわゆる純文学とともに私小説も好きだった。純文学系には私小説的なものも多い。

私小説がつまらないのは、想像力の欠落とも取れる「スケールの小ささ」が特徴だからだ。あるいは「重箱の隅をほじくり返す」的なディティールのうっとうしさ。

しかも私小説の「私」を読者である僕はほとんど知らない。ツーか全く知らない。有名作家の場合は知っているような錯覚に陥るが、実は知らないのだ。

その点Facebookの友達の場合は、個人的なことはほとんど知らないが、「表現」という人間だけが欲求する道具(SNS)を共有する意識でつながっている。これは人類のコミュニケーションの歴史の中では極めて重大な事件である。

それを大事にしてみようと考えるようになっている。しかし、それだけでは物足りない。つながっている人の絶対数が少ないからだ。そこで個人ブログをあらためて気を入れて見直すことにした。

つまり、公私にわたるテーマを、さらに真剣に自分のスタイルで、できる限り多く書き綴って行ってみようと考えている。

ここから最低10年を目処に進もうと思う。僕はブログの開始当初から最低10年の継続を目指していて、そう宣言もしたりした。

ブログ開始から丸5年以上を経て、いろいろな体験も経て僕は再び「ここから10年」、と考えている。残された半分の5年ではなく10年だ。

一応、その目標を立てたが、今現在の気分としては「飽きがくるまで」が正確である。

その気分が変わらなければ、これから10年後に再三「ここから10年」と宣言しようと思う。

僕はやっぱりブログ、またSNSという表現手段全体が好きなのである。それでなければ何度も「ここから10年」、などと書き続ける期間を延ばしたりはしないだろう。

新聞、雑誌、文芸誌などにも書いてきて、紙媒体への愛着も依然としてある。

同時に今のところは、発見したこのWEB媒体の可能性も追い続けたい。

グワンバルぞ~