eutanasia-belgio-生命維持装置の管を鋏で切る400pic



2017年2月27日、イタリアの一部で著名だったDJのFabo(ファボ:本名Fabiano Antoniani)さんが、スイスの病院で薬物摂取による幇助付きの自殺をし、安楽死・尊厳死をめぐる大きな議論を巻き起こした。

Faboさんは2014年6月、交通事故で失明し、首から下が完全に麻痺した上に、絶え間のない激痛が全身を襲う、という後遺症に見舞われた。

彼は死に際して公表した音声メッセージで、自らのその状況を「ただ痛みと痛みと痛みがあるだけの地獄」と形容した。

Faboさんは事故後しばらくは望みを捨てずに治療やリハビリに取り組んだ。しかし回復の兆しは見えず、やがて安楽死を願うようになった。

彼は安楽死を認めるようにSNSなどを使って国に訴え始めた。だが国の反応は鈍かった。Faboさんは結局、安楽死が容認されているスイスで死ぬことを選択した。

彼にはイタリアから1人の男性がサポートとして付き添った。安楽支援団体所属の政治家、マルコ・カッパート氏である。同氏はスイスの安楽死専門病院でFaboさんの自殺を幇助した。

Faboさんの死後、カッパート氏 はイタリアで自殺幇助の罪に問われていて、禁固10年の刑罰が科される可能性がある。

イタリアでは安楽死また尊厳死は認められていない。そのため毎年約200人もの人々が、自殺幇助を許容しているスイスに安楽死を求めて旅する。そのうちの6割程度は実際にスイス側に受け入れられるとされる。

安楽死に対するイタリア社会の抵抗は強い。そこにはカトリックの総本山バチカンを抱える特殊事情がある。自殺は堕胎や避妊などと同様に、バチカンにとってはほぼタブーだ。その影響力は無視できない。

それでも安楽死は、堕胎や避妊に続いてイタリア社会の中で頻繁に議論の的になり、従ってそれを受け入れる空気も、やはり堕胎や避妊のそれを追いかけて次第に醸成されてはいる。

今回のFaboさんの自殺に対しても、多くのイタリア人が理解を示し、SNSなどで彼への賛美を表明した。それは25年前に起こり8年前に終結した、エルアナ安楽死騒動とは様相が大きく違っていた。

エルアナ・エングラロ(22 )さんは1992年、交通事故で植物人間状態に陥り、17年に渡って生存を続けた。彼女の父親は、事故から7年後に娘の安楽死を求めて裁判を起こした。

カトリック教会と信者、また彼らに同調する人々からの激しい非難を受けながら、父親は闘い続けた。裁判闘争は長く続き、その出来事を通してイタリア社会には安楽死への理解が深まった。

Faboさんの安楽死に多くの賛同者が出たのは、エルアナさんの父親を始めとする過去の安楽死事案の関係者の努力があったからだ。イタリアでは安楽死への反対が常に多かったが、今回は賛成が74%にのぼった。

安楽死・尊厳死に関しては多くの論考があり賛否両論が逆巻いているのは周知の事実だ。僕はいわゆる「死の自己決定権」を支持する。安楽死・尊厳死は公的に認められるべきだと考える。

ただしそれには、安楽死・尊厳死を求める本人が、意志表示のできる環境にあって、且つ明確にその意志を表明し、そのあとに安楽死・尊厳死を実行する状況が訪れた時、という厳然たる条件が付けられるべきだ。

そうした僕の立ち位置は、世界で初めて安楽死を合法化したオランダや、民間団体が合法的に自殺希望者に薬物を処方して生命を絶つ、幇助付き自殺を行うスイスなどの立場とほぼ同じである。

生をまっとうすることが困難な状況に陥った個人が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死、つまり自殺を要求することを拒むのは、自然のまた人の生の摂理に楯突く僭越な行為ではないか。

安楽死・尊厳死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることである。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

人の弱さに起因するそうした不都合を限りなくゼロにする方策を模索しながら、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを公的に認めるべきである。

Faboさんは自らの明確な意志で安楽死を望んだ。これを容認しないのは間違いだと思う。エルアナさんは植物状態だったから「自らの明確な意志」を示すことができなかった。そのため父親が代わって安楽死を願った。

父親はエルアナさんを彼女らしく死なせてやりたいと主張し裁判に訴えた。娘への愛情からの行動である。この場合は尊厳死という形容が適切だろうと思う。彼の願いは裁判を起こしてから10年後にようやくかなえられた。

エルアナさんのケースでは患者本人の意思表示がない。肉親である父親が彼女の気持ちを忖度して、恐らく娘は植物状態のまま生き続けることを拒否するだろう。従って生命維持装置を外して自然死をもたらすことが最善の道、と判断した。

僕はエルアナさんの父親にも共感する。その場合の僕の判断基準は、もしも自分がエルアナさんの立ち場に置かれたならば、果たしてどう考えいかに結論を下すだろうか、と繰り返し真剣に考えた上での断案だ。僕もやはり死を選ぶと思うのである。

僕の考えはいうまでもなくエルアナさんのものではない。彼女はもしかすると、いかなる状況になっても生命維持装置を外さないでほしい、と考える類の人かもしれない。

しかし、エルアナさんの意思を確かめる手段はなく、彼女を最もよく知り最も深く愛している父親が、昏睡状態から回復する見込みのない娘に代わって自然死を願い出ているのだから、僕はそこにも賛成するのみなのである。

人類は将来、植物人間状態になって通常の意思疎通ができない患者の真意を知る手段も必ず手に入れるだろう。たとえば電気信号のようなものを駆使して、口もきけず意思表示もできない人間の心の内を知るようになると思う。

そこに至るまでは、我われはエルアナさんのような苦しい境遇になった人の気持ちを忖度して行動するしかない。その場合は、自らの立場に置き換えて考えてみるのが最も誠実な態度だと思う。

一方、Faboさんのように回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを公的に認めるのが筋ではないか。

唐突なようだが、それは高齢者の生のあり方にも示唆を与える得る重要なコンセプトだと思う。つまり長命者は「どこまで」また「どんな風に」生きるべきか、という問いへの答えの一つだ。

高齢化社会で「超高齢」になって介護まで必要になった者が、「自らの明確な意志」に基づいて将来の死を選択することができるかどうか。またそうすることは是か非か、という議論はこの先決して避けて通れない命題であるように思う。

高齢者が死ぬリスクよりも、むしろ「無駄に長生きをするリスク」の方が高いようにさえ見える現代を生きる者は、誰もが早い段階から自らの「行く末の始末」を考える習慣を持つべき時が来ているような気がしてならない。

もしも僕の予感があたっているなら、最重要なことはそこでもやはり個人の意志の有無である。全ての人が考えて意を決して、自らでは考えることも身動きすることもできなくなった時を想定し、生き続けるか否かをリビングウイルにして、元気な時に明示しておく仕組みが作られてもいいように思う。

いかに死ぬかという問いはつまり、いかに生きるか、という問いである。死は生を包括しないが生は死を包括する。あるいは生は死がなければ完結しない。死は生の一部にほかならないのである。ならば死に対しても、逃げることなく大いに議論がなされるべきだと考える。