僕は今のところは死刑制度に賛成である。しかしこの賛成は、かなりためらいながらの賛成である。
誰にも人を殺す権利はない――死刑も殺人である――のは明らかだし、死刑を執行された犯人が実は冤罪(えんざい)だったという、決してあってはならない事態の起こる可能性等を思えば、「死刑制度に賛成」と大手を振って言うことはとてもできない。
それに加えて、世界の民意も風潮も、また僕自身の理性も、死刑制度には反対と言っている。でも僕は、たった一点の迷いのために、やはり現在は死刑制度に賛成、と表明しなければならないのである。
例えば僕は、僕の家族の誰かが理不尽に殺害されたとき、その犯人を赦(ゆる)せるかどうか自信がない。いや多分赦せない。犯人が赦せないのではない。犯人が生きていることが赦せないだろうと思う。したがって終身刑でも納得できない。必ず犯人の死を要求しそうな気がしてならない。
つまり、僕は今のところ、自分の復讐心を制御できないのではないか、と感じるのである。その一点を正直に認めるために、僕はどうしても死刑制度に反対、と主張することができない。
(ヨーロッパのほとんどの先進国と同じように、僕が今住んでいるこの国)イタリアには死刑制度はない。それどころか、多くのイタリア国民が死刑というものに激しい嫌悪感を示し、あまつさえ活動的な人々は、差し出がましくも他国の死刑制度に噛み付いて、がんがんそれを罵倒し制度の廃止をヒステリックに叫んだりもする。
その気持ちは実は僕は分かる。くり返すが僕も「理性」では死刑制度に反対なのだ。でも前述した感情のもつれ、つまり赦せない気持ち、復讐心らしいものの存在がどうしても僕の行く手を阻んでしまう。
そんな自分の「悩み」にはお構いなしに、イタリア人があらゆる機会に見せる「赦(ゆる)し」の哲学も僕を惑わせる。
この国では犯罪被害者や被害者家族などが、「過ちは償われるべきだが、公正な裁きが下された後は犯罪者を赦す」という趣旨のことをごく普通に表明する。それは高尚高潔な偉人や聖人の言葉ではない。市井の犯罪被害者たちのメッセージなのである。(実はそれはイタリアに限らず、欧米の多くの人々に共通する態度だ。)
僕は自分が彼らに比較してより冷酷だったり、残忍無慈悲な人間であるとは思わない。それなのに彼らは楽に「赦す」ことができて、僕にはできないのはなぜかと考えたとき、どうもそこには宗教の存在がかかわっているのではないかと気づく。
僕はキリスト教徒ではないが、この国にいる限りはイタリア人でキリスト教徒でもある妻や妻の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように実践してきた。
一方妻は日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる僕の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。それは僕ら異教徒夫婦がごく自然に築いてきた、日伊両国での生活パターンである。
どんな宗教にも美点があり欠点があると思うが、僕が長い間キリスト教の教義に接してきた中で見た美点の一つは「赦(ゆる)し」の観念である。「過ちや罪や悪行を決して忘れてはならない。しかしそれは赦されるべきである」という教えはキリスト教の最重要な理念の一つである。異端者の僕だがこの教えには非常に深い敬意を覚える。
イタリア人が死刑制度を廃止し、犯罪者を赦すことができるのは、その宗教の教えがあるからではないか。もちろん誰もが簡単に「赦し」を実践できる訳ではない。むしろ実践できない者がほとんどである。だからこそキリスト教では、そのことを敢えてくり返し信者に諭し、強調するのだろう。
統計上、日本人の8割ほどが死刑制度を容認しているのは周知の事実である。そのことに思い至ると僕は、われわれ現代の日本人は、どちらかというと赦すことが不得手な国民ではないのか、という考えにとらわれたりもする。
しかし、日本人は常に「赦さない」国民であったわけではない。
かつて親鸞聖人は
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
と説いた。これは原意を敢えて拡大解釈して言えば、「善人でさえ極楽往生を遂げるのだ。ましてや悪人はもっと極楽往生を遂げることができるのは自明だ」という意味である。
逆説を用いて、悪人が仏の慈悲によって極楽往生を遂げると説くこの思想は、キリスト教をも越えるとてつもなく大きな「赦し」の教義だと言っても過言ではあるまい。
それなのに僕を含む8割の日本人の「赦さない」心は、一体どこから来たのだろうか・・
日々の生々しい人間関係の中では赦すことができない事柄が多々ある。それどころか赦すことが苦しい場合さえ少なくない。しかし「赦さない」ことはもっと苦しい。それは憎しみを抱え続けることだからだ。赦すことで人は相手を救い自らも救われるように思う。
キリスト教異端の徒である僕は、不信心から宗教的に「赦す」ことができず、さらに人間ができていないゆえにますます「赦す」ことができずにいつも苦しんでばかりいる。「赦さない」態度は悲しい。いつの日か赦すことができる人間になりたいものである。
そのときこそ僕は、誰はばかることなく「死刑制度反対!」と叫ぶことができるに違いない。