di lello夫婦&    d‘Elisa
デリーザ&ディ・レッロ夫婦


2017年3月24日、イタリア第一審は、交通事故で妻を殺された腹いせに加害者を銃撃殺害した男、ファビオ・ディ・レッロを30年の刑に処する、と決定した。僕は直感的に「ずいぶん重い刑罰だな」と思った。

今年2月初めに起きた銃撃事件を受けて、僕はここに次のような趣旨の記事を書いた。

2016年7月、イタリア・アブルッツォ州のヴァストの交差点で、スクーターに乗った女性が信号無視の車にはねられて死亡した。女性の名はロベルタ・スマルジャッシ(33)。加害者はイタロ・デリーザ(22)。

それから7カ月後、事故のあった同じ町の路上で、加害者のデリーザは1人の男に至近距離から拳銃で撃たれて死亡した。撃ったのは、デリーザの車にはねられて亡くなったロベルタの夫、ファビオ・ディ・レッロ(34)。彼は妻を殺された報復に若者に銃弾を浴びせた。

悲惨な事件は、イタリア司法制度の最大の欠陥の一つ、審理の遅滞と混乱が引き起こした悲劇である。同時にイタリア司法制度の長所である厳罰回避主義も関係しているのが皮肉だ。
 
撃たれたデリーザは裁判所の審理を待つ間、住人の全てがお互いに顔見知りのような小さな町を、何の制約も受けずに自由に動き回っていた。デリーザとディ・レッロが道で行き合うことさえあった。
 
また加害者のデリーザは、裁判では恐らく刑務所に入ることもない軽い刑罰で済み、結審後もほぼ自由であろうことが予想された。イタリアの法律では、交通事故の犯人は酒気帯び、麻薬摂取、あるいはひき逃げなどの悪質なケースを除いて刑罰が軽くなるのだ。その観測が妻を殺されたディ・レッロの苦悩となっていた。そして事件が起こった。

厳罰主義を否定するイタリアの司法の精神は素晴らしい。そこにはキリスト教最大の教義の一つ「赦(ゆる)し」の哲学が込められている。しかし、裁判の極端な遅滞が重大問題だ。

動きの遅い司法の鈍感と無能のせいで、事故の加害者と被害者が小さな町で日常的に顔を合わせる、という苦しい残酷な状況が生まれ、やがて衝撃の結末が訪れたのである。


そこで指摘したように、銃撃事件を引き起こしたのは、イタリア裁判所の怠慢から来る遅滞と鈍感だと僕は思う。

赤信号で交差点に進入して、被害者をスクーターごとはねて死亡させたデリーザは、事故後はまるで何事もなかったかのように小さな町を自由に徘徊していた。

事故で愛する妻を殺されたディ・レッロは、その状況に憤り、悲しみ、苦しんでいた。ディ・レッロの悲憤を知っている町の住民の多くも彼に同情した。

ロベルタに正義を400pic町の人々は「早く裁判をしろ」「ロベルタ(被害者)に正義を」などと叫び、デモさえ起こして、動きの鈍い司法を強く非難した。住民の怒りは日ごとに高まった。


しかし、遅滞で悪名高いイタリアの裁判のあり方が、すぐに改善されるはずもなかった。そうこうするうちにディ・レッロは町中で加害者のデリーザと行き逢った。

デリーザは彼に謝罪するどころか、まるで挑むように乗っていたバイクのエンジンを噴かしてディ・レッロを威嚇した。ディ・レッロの憤懣が最高潮に達した。そして4発の銃弾が放たれ、3発がデリーザの体を破壊した。

事件後、司法はそれまでののろまな動きがまるで嘘のように迅速に動いて、被害者(の夫)から加害者に変わったディ・レッロを断罪した。

検察の求刑は、死刑のないイタリアではもっとも重い刑罰、終身刑だった。それは減刑されて30年になった。が、僕は30年という刑の重さと裁判所の素早い動きに強い違和感を覚えた。

そこには、交通事故後に湧き起こった裁判所への批判に対する、司法の意趣返しのニオイが強く漂っていると思うのだ。裁判所は時の権力や世論から完全に自由ではあり得ず、中立平等でもあり得ない。

つまり司法も自らの主観の影響下で判断をし断罪をするのだ。司法の中立平等とは、裁判官がそのことをどこまで自覚して、どこまで主観を殺して権力や世論の影響を排除しようと努力するか、の度合いに過ぎない。

当事案を担当した所轄のイタリア地方裁判所は、交通事故を受けてディ・レッロに味方し、彼らを批判する世論に苛立っていた。そんな中、まるで民意にも後押しされるようにして、ディ・レッロが事故加害者を殺害するという暴挙に出た。、

裁判所は、これ幸いとばかりに急いでディ・レッロを断罪し、彼らに批判的な世論にも仕返しをして溜飲を下げた・・というのはさすがに言い過ぎかもしれないが、それに近い心理状況が裁判所にあったのではないか。

それが奇怪なほどに速い審理、結審となって現れ、かつ「厳罰主義を採らない」という伊司法の原則を無視したような30年の断罪、という重い判決を招いたように思う。

銃撃事件の原因となった交通事故の裁判審理では、司法は加害者のデリーザが飲酒や麻薬を使用していなかったことなどを理由に、彼を強く責めなかった。それどころか自由にしておいた。

つまりそこには、カトリックの「赦し」の哲学に基づくデリ-ザへの寛容があった。ところが、彼を殺害したディ・レッロには、終身刑は避けたものの30年もの重罰が課せられた。不自然で一貫性がないのである。

デリーザが起こした事故は偶発的なものであり、ディ・レッロの銃撃事件は計画的犯罪だったという重大な違いがもちろんある。それでもデリーザは信号無視を犯し、ディ・レッロには被害者遺族という情状酌量の余地がある。

30年という刑期への感じ方は人それぞれだろうし、特にデリーザの遺族にとっては、もしかすると30年でも足りず、むしろ終身刑を望んだかもしれない。だがディ・レッロに対する裁判所の態度は、必要以上に厳しいものであるように僕の目には映る。

加害者の過失によって妻を路上で殺され、且つその加害者がなかなか罰せられず、それどころか自由の身でいる、という状況に苦しみぬいた挙句にディ・レッロが犯行に及んだ点を考慮すれば、30年の重刑に処するのは酷だと思うのである。

僕のそうした反応はもしかすると、ディ・レッロの復讐心に共感する心理から出ているのかもしれない。彼が実際に報復行為に出たことは理解不可能だが、僕は彼の苦しみと怒りは分かるような気がするのだ。そして僕のその心機は、キリスト教の強い「赦し」の哲学を知らない日本人特有のものである可能性がある。

ならばそれは恐らく、死刑賛同者が8割にも達する日本の世論とも無関係ではない、と僕はさらに自らを怪しむ。僕は理性では死刑制度に反対しつつ情感でそれを認める、というあいまいな立場から未だに自分を解き放すことができず、その由無い状況を自身でいつまでも持て余している、という類の人間なのである。