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僕は2015年11月のブログ記事「北の湖親方をサルコジ元仏大統領に会わせたかった」の終わりに、

「僕のその願いは、前述したように僕自身の「北の湖体験」と深く結びついている。一昨年の大鵬親方の死に続いて昭和の大横綱がまた1人姿を消した。残念極まりない。心から冥福を祈りたい。」

と書いた。すると匿名のメッセージ欄に「冥福」という」表現は使わない方がいい、というとても控えめな遠慮しいしい書いているのが分かる便りをいただいた。おそらく浄土真宗の信者の方か、それに近い方なのだろうと思う。

そのことについて書こうと思いつつ、時事ネタに押され、また書きたいテーマの優先順位や時間の無さなども手伝って、ずっと後回しにしてきた。ここで自分の中の優先順位に沿って--どうしても今書かなければならないというテーマではないが--言及しておくことにした。

冥福とは死後の幸福のことである。冥は「死後の世界」や「くらやみ」などを意味する。仏教では亡くなった人は49日間冥土をさ迷いながら生前の行いの裁きを受ける。いわゆる中陰である。「冥福を祈る」とはさ迷う死者が良い世界に転生できるように祈ること。それは真摯な祈りの心を表す言葉だ。

ところが仏教の中でも親鸞を開祖とする浄土真宗では、亡くなった人は阿弥陀如来の本願によってすぐに成仏する。冥土をさ迷うことはないのである。それはいわゆる「浄土往生」の教義のうちの即得往生、つまり臨終即往生の考え方だ。

その考え方は、真言宗で説かれる 「即身成仏」すなわち生身のままで仏となること、あるいは修行者が「行」を行うことで大日如来の真実の姿と一体化して仏になること、にも似ている。浄土真宗では死者、真言宗では生者が仏になるだけの違い、と言っても大きな間違いではないだろう。

浄土真宗では、人は信心を得た時点で往生が定まり、前述したように亡くなると同時に極楽浄土に行く。つまり幸せになるのだから既に幸福になった死者の幸福を祈るのは失礼、というか余計なお世話だ、というのが「“冥福を祈る”は間違い」説の根拠だろうと思う。

また浄土真宗では「往生即成仏」なのだから、遺族が故人を仏にしようと7日ごとに祈る(法要)必要もない。同宗における法要は、故人を縁として遺族(生者)が集い、彼らを見守る故人に感謝しつつ釈迦の教えに接すること、つまり仏縁に出会う機会なのである。

葬儀や法要を含むあらゆる宗教儀式は、死者のためではなく「生者(遺族)のために」存在する。われわれは宗教儀式を行うことによって、大切な人を亡くした悲しみや苦しみを克服しようとするのだ。その意味では故人を縁として遺族(生者)が集い、慰撫し合い、また鼓舞し合う浄土真宗の法要こそ真実ではないか、と僕は思う。

また弔辞は死者への祈りにかこつけた、人々の生者(遺族)へのいたわりやエールだ。「冥福を祈る」という表現もその一つである。従ってそれを無神経と否定するのは少し硬直過ぎるのではないか、と考えて敢えて意見を述べてみたいのである。

僕は親鸞聖人を尊崇する者であり、また決して浄土真宗の信者の方々を誹謗するつもりもない。誹謗どころか、先刻述べたように浄土真宗の法要の教義に心酔さえしている。しかし、二つの理由で「冥福を祈る」という表現を擁護してもいいのではないか、と思うのである。

一つは冥という言葉には前述の訳合いのほかに、ある意味ではその対極にある「神仏のはたらき」という意味もある。従って「冥福を祈る」は亡くなった方に神仏の加護がありますように、と願う心のことでもある。

二つ目は、「冥福を祈る」という表現が一般に定着していて、且つそこには死者への尊崇の思いが込められているだけであり、それ以上でも以下でもないという現実である。間違った表現が市民権を得て「正しく」なっていくのはよくあることである。

少し意味が違うかもしれないが、たとえば「ら」抜き言葉が本来は間違いであるにもかかわらず、一般化したために最早間違いとは言えない、という現実にも似ている。「食べられる」が正しいので「食べれる」は間違い、と言ってもある面では詮無いことである。言葉は人間が使うものだから、より多くの人が使う言葉が最終的には正しい。

とはいうものの、僕などは「ら」抜き言葉に違和感を持つ者なので、こだわっていまだに「食べれる」と言えない。ためしにそう口にしてみると、気持ち悪い、というのはさすがに言い過ぎだが、かと言って、違和感がある、と形容するだけでは物足りない、という程度の「違和感」を覚える。それと同じで、「冥福を祈る」という表現にどうしても不審感を抱く皆さんがいらっしゃることは、分かり過ぎるくらいによく分かる。

そしてこうして公に意見を述べた以上、今後僕は「冥福を祈る」という表現を支持しつつ、浄土真宗の信者の方々やキリスト教などの非仏教徒の皆さんなどを尊重する立場から、僕自身はその表現を使わないようにしようと思う。それは少しも難しいことではない。亡くなった方に“謹んで哀悼の意を表します” あるいは“心からお悔やみを申し上げます”などの言い方で十分なのである。

ところで、浄土真宗には「赦し」の教義(哲学)を巡って僕がこだわるもう一つの命題がある。それは「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と説いた、親鸞聖人の言葉の真意についてである。いわんや悪人をや、の「悪人」は現在の犯罪者や無法者という意味の悪人ではなく、衆生つまり全ての人という意味である。

彼らこそ阿弥陀如来の本願(功徳)によって救われるべき人々である。彼らは自らが悪人であることを知るとき(もはや悪人ではなくなって)救われる。一方善人とは、自らが悪人であることに気づかない「自らが善人である」と思い込んでいる人々のこと、というような解釈も可能な入り組んだ説だ。

それは単純化して考えれば、善人は阿弥陀如来を信じる者のこと。悪人はそうではない者のこと、という解釈も可能であるように思う。阿弥陀如来の本願を知る者(善人)は救われる。しかしながら阿弥陀如来を知らない蒙昧な衆生(悪人)もまた救われるのである。

そう考えればあらゆる人を赦す(救う)のが信心、という結論になる。この考え方ではありとあらゆる宗派に属する日本人はもとより、キリスト教徒もイスラム教徒も無心論者も誰もかもが赦され、救われ、成仏できる、ということである。

それが「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」、つまり「善人でさえ極楽往生を遂げるのだ。ましてや悪人はもっと極楽往生を遂げることができるのは自明だ」という表現ではないか。原意にこだわってあれこれ解釈をこねくり回す必要はないし、ペダンチックに中世の悪人と現代の悪人の意味を取りざたするのもあまり意味がない。

その言葉の偉大は、念仏さえ唱えれば全ての人が救われる、という「赦しの心」の大きさの中にこそある。つまり親鸞聖人の心はあらゆる人を赦すイエス・キリストの心と正確に同じなのである。それどころか、逆説を用いて「悪人が仏の慈悲によって極楽往生を遂げる」と説くのは、あるいはキリスト教をも越えるとてつもなく大きな「赦し」の哲学である可能性さえある、と思うのである。




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