![怒った顔の子供](https://livedoor.blogimg.jp/terebiyainmilano/imgs/f/d/fd4611b2.jpg)
先日、イタリア・ボローニァ市でバングラデシュ生まれの14歳の少女が、両親に無理やり頭を丸坊主にされた。彼女はヒジャブ(スカーフ)を頭に被らなかったために、罰として親に髪を切られたのである。
警察は両親を虐待の疑いで取り調べた。それによると少女は、ムスリム女性が身に着けなければならないヒジャブにうんざりしていて、家の中では両親の手前それを着用していたが、外でははずしていた。母親がそのことに気づいて娘を責め父親が髪の毛を剃った。
警察は事態が明るみになったことを受けて、両親が娘にさらなる懲罰を与えかねないとして、少女自身と彼女の姉妹らを児童養護施設に一時的に保護した。
それと似た事件が同時期にシエナ市でも起きた。ボスニア出身のイスラム教徒の父親が、娘がヒジャブ(スカーフ)を着用せず、コーランも読まず、アラブ語も勉強しないなどの理由で彼女に暴行を加えた。
少女は自分から父親を告発することはなかったが、学校のクラスメートや教師が異変に気づいて警察に訴えた。父親は傷害容疑で身柄を拘束された。
イタリアに限らず、欧州では似たような事件が頻発する。そうした蛮行は、イスラム教徒への偏見を助長するのみならず、「過激派のテロリストとイスラム教徒を混同してはならない」という原則をも吹き飛ばしかねない、忌まわしいエピソードだ。
キリスト教徒が大多数を占める欧州には、ムスリムへの偏見や差別が歴然としてある。それは是正されなければならない。同時にイスラム教徒も欧州の規律を尊重し、女性への抑圧や暴力をやめるべき、と主張するのはおかしいだろうか。
イスラム教徒に限らず、非欧州人への偏見や差別は欧州にはよく見られる。日本人への偏見や差別も皆無ではない。それどころか欧州人同士でも似たようなことが起こる。世界のどこでも見られる光景だ。
そうしたことは無くさなければならないし、徐々に無くなっていくだろう。その方法は、偏見差別する側はもちろん、される側も共に事態の本質を見つめて対話し、行動し、歪みを正す努力を怠らないことだ。
イスラム教の戒律はその信者らの祖国では尊重されても、欧州その他の国々では理解されないことが多い。ましてや女性への暴力や抑圧や差別は、理解されるどころか、人々の怒りを買うばかりだ。
人も宗教も変わるのが世の常だ。女性差別や偏見はキリスト教徒も過去にしてきたことだ。日本を含むその他の地域の宗教社会も同じことだ。だがその因習は捨てられつつある。今やそうした時代錯誤な態度や思考は許されない。
イスラム教だけが変わらずにいることは不可能だ。特に女性蔑視の悪習は一刻も早く改善されるべきだ。それでなければ、欧州におけるムスリムの地位はいつまで経っても改善しないだろう。
欧州にはムスリムの女性が身にまとうヒジャブ(スカーフ)を問題にする歴史がある。
1989年、フランスでヒジャブをまとった女子中学生が校門から中に入ることを拒否された。ヒジャブが政教分離の原則に反するとみなされたのだ。以後欧州では、様々な形でムスリム女性のヒジャブ着用の是非が議論され続けている。
欧州社会の大半は、ヒジャブを女性抑圧や差別の象徴とみなしてこれを禁止しようとする。対してイスラム教徒は、ヒジャブを禁止しようとするのは信仰の自由への介入だと反発する。ムスリム女性は自らの自由意志でヒジャブを被っているのであり、強制ではないと主張するのである。
欧米では最近、イスラム過激派によるテロの横行によって、イスラムフォビア
(嫌悪)が急速に高まりつつある。それに伴ってヒジャブを巡る議論は、欧米側のイスラムフォビアに油を注ぐ形になることが多くなってしまった。宗教論争というよりも、憎悪の応酬の様相を呈するようになったのである。
そうした中で起こる、イスラム教徒家族内での娘や女性への理不尽な扱いは、人々のさらなる反発や嫌悪を呼んで、対立がますます深まる原因の一つになっている。
宗教は絶対的なものではない。宗教者とその周りの当事者また関係者は、自らの権威を守るために守旧派になる。だが変わらない宗教はいつか崩壊する。
繰り返すが人も社会も絶えず変化している。流転変遷が世の常だ。人と世の中の変異に合わせて宗教も変わる勇気を持つべきなのである。イスラム教だけが変わらずにいることはあり得ない。
特に女性蔑視の風習は一刻も早く改善されるべきだ。他者の信奉する宗教にイチャモンをつけるのはタブー、と知悉しながらも僕は、一部のイスラム教徒が自らの信教の評判を傷付ける事件を引き起こすたびに、ひとり思わずにはいられないのである。