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シク教徒のキルパン


イタリア最高裁は2017年5月15日、インド人のシク教徒で移民の男が、キルパン(シク教の儀礼ナイフ)を腰に差して街なかを歩くのは違法、という最終判断を下した。

男は4年前の 2013年3月6日、北イタリアのゴイト市でキルパンを身につけて自宅を出てところを住民に通報され、武器の不法所持で警察に逮捕された。

オーソドックスなシク教徒は、宗教戒律として髭を蓄えターバンを頭に巻いて、キルパンを腰に差し下げている。男は身に着けたキルパンは武器ではなく宗教上のシンボルだと主張した。

しかし認められず、マントヴァ高等裁判所は2015年、男を有罪として€2000(約25万円)の罰金刑に処した。男はそれを不服として控訴したが、最高裁は先日、男の訴えを斥けて冒頭に記したように刑が最終確定したのである。

シク教徒はインドを中心に世界に約3000万人いるとされ、欧州には50万人ほどが居住している。そのうちのおよそ7万人がイタリアに暮らす。イタリアは英国に次いで、欧州第2のシク教徒移民受け入れ国なのである。

ターバンを頭に巻いたユニークな姿が目立つシク教徒は温和な人々である。少なくともここ欧州においては、例えばイスラム過激派のように、彼らの宗教を騙ってテロを起こすような、不穏な要素も持たない。

インドのパンジャブ地方に起こったシク教の信者数は、同国に約8、3億人いるとされるヒンドゥー教徒に比較すると圧倒的に少ない。それにもかかわらず、ターバンを巻いた彼らの姿は、世界中の多くの人々に今もなお「インド人の典型」のようにイメージされているフシがある。

シク教徒の多くはインドの富裕層である。教育水準も高く昔から海外に出る者も多かった。またインドを統治したイギリスが優秀な彼らを重用したこともあって、ターバン姿の彼らはますます世界に知られるようになった。やがて人々は、インド人は皆ターバンを頭に巻いているもの、と思い込むようになった。

シク教はインドの代表的な宗教であるヒンドゥー教とは違って一神教である。だが、他宗教を否定することはなく、苦行やカースト制度に反対し、離婚や同性愛に関しても比較的に寛容である、など、近代的な教義も備えている。

またシク教では、神前に供えた飲食物を信徒が畏まって食べる習慣がある。まるで日本人が神仏に捧げた供え物を有り難くいただく風習のようである。僕はそうしたことなどからも、個人的にはシク教徒の皆さんに親近感を覚える。

それでも僕は、シク教徒に不利な判決を下したイタリア最高裁の裁定を支持したい。最高裁の判決は、シク教徒がキルパンの着装と同様に宗教上の義務と見なすターバンには言及しなかった。あくまでも長さが18センチ~20センチ程度のキルパンを「武器」と見なして禁止しただけである。

キルパンを禁止するというイタリア最高裁の決定は、言葉を替えて簡単に形容すれば、要するに「移民は郷に入らば郷に従え」という宣告である。宗教の自由や多様性の尊重、また寛容の精神の奨励などを毀損しかねない、微妙な要因も孕(はら)むその判決を、僕は善しとしたいのだ。

なぜならばここのところ多くの移民、特にイスラム教徒などが、欧州社会の寛容をいいことに自らの存意のみを言い張るケースも少なくない、と僕はしばしば思うからだ。僕は日本国籍を捨ててはいないものの、自身も日本からの移民だと見なし、従って彼らとほぼ同じ立場にいる者、と自らを規定している。

最近ヨーロッパでは、イスラム教徒の女性が頭に被るヒジャブへの風当たりが非常に強い。ヒジャブは女性蔑視の象徴か否か、という欧州に元々あった議論に加えて、イスラム過激派への恐怖心や不信感が相まってその議論は、倫理や宗教や権利論の域を逸脱して、単なる「イスラムフォビア(嫌い)」の表出に過ぎなくなっている場合も少なくない。

今回のイタリア最高裁の判決にも、人々の移民嫌いの心理が働いていない、とは言い切れない。しかし、繰り返しになるが、禁止対象は武器と見なされたキルパンのみで、ターバンを狙い所にしなかっただけでもまだ増しだと僕には思えるのだ。もしもターバンを巻いて出歩くことも違法であり禁止、と裁判所が決め付けたりしていれば、あるいは宗教の自由に抵触する重大問題に発展したかもしれない。

前述のように自らもイタリアに住む移民の一人、と考えている僕はこの国に限らず欧州の全ての移民に親近感を持ち、彼らの移民としての弱い立場に思いを馳せ、なによりも移民への偏見や差別に強く反対する。同時に移民は「人さまの国にお世話になっている」のだから、移民先の社会の規範や慣習や法などの全てを尊重しながら自らを戒めるべき、とも考えているので伊最高裁の判決も支持するのである。

イタリアを含む欧州各国は、かつて現在の多くの移民の祖国であるアフリカ、アラブ、アジア地域に出向き彼らを支配し搾取して、そこでは‘郷に入らば郷に従え’どころか、逆に彼らを同化させようとしたりさえした。その歴史に鑑みれば、移民が欧州に来て欧州の規範に倣うのは理不尽、という考え方もあるかもしれない。

だが時代は変わった。欧州は絶え間ない対立と戦争による相互殺戮の悲惨な歴史を経て、自由と平等と民主主義を学習し、現在は彼らの「傲慢からではなくむしろ寛容から」移民や難民を受容し、彼らの宗教また信教の自由も十全に認めている。それは他者への抑圧と詭弁と搾取と蔑視と悪に満ちた「かつての欧州の論理」とは違うものである。

また判決は「イタリア社会は多様性を重んじるべき」と論及し「移民とそれを受け入れる社会は核になる価値観を共有するべき」とした上で、「公共の治安は一部の宗教義務よりも優先される」とも断じた。判決はさらに続けて「出身国では合法の事案でも移住先の国で違法なら違法」であり「移民の宗教信義は受け入れ先社会の法律と合致しなければならない」などの付帯文言も加えた。それらの宣告なども納得のいくものであるように僕は思うが、どうだろうか。