グロリアとマルコ
プロローグ・悲劇
「お母さん。どうやら私はここで死ぬことになるらしい。今日まで私のためにたくさんのことをしてくれてありがとう。私は天国からお母さんたちを見守ります」
グロリア・トレヴィザン(26)は炎に包まれたロンドン「グレンフェル・タワー」の23階の自宅から、電話の向こうで恐慌に陥っているイタリアの母親に言った。
グロリアの側には同郷の恋人、マルコ・ゴッタルディ(27)がいた。建築家の2人は3ヶ月前、仕事と夢を求めてロンドンに移住したばかりだった。
いきさつ
グロリアがイタリアの両親に最初に電話を入れたのは、イタリア時間の6月14日午前2時頃。「お母さん、怖いことが起こっている。ビルの下の階で火事があったらしい」と彼女は言った。
マルコと一緒にグレンフェル・タワーの23階から下に逃げたいが、炎が階段を伝って駆け上がっていて、煙も充満して身動きできない。閉じ込められたようだ、と続けた。
そのときのグロリアの声は不安そうではあるがまだパニックにはなっていなかった。5階あたりで発生した火事は、ほぼ最上階の彼らのアパートに達する前に消し止められるだろう、という希望的観測があったものと考えられる。
しかし、時間経過と共に彼女は明らかに狂乱に陥った。「私はまだ死にたくない。私にはやるべきことがたくさんある。もっと人生を楽しみたい。こんな不公平は受け入れられない!」グロリアは代わる代わる電話に出る父と母に訴えた。
父親のロリスは万が一のことを考えて娘とのやり取りを記録し始めていた。最悪の事態になった場合、そこにいないグロリアの弟に彼らのやり取りを聞かせてやらなければならない、と思ったのだ。
AM2:45分頃、グロリアと一緒にいるマルコもイタリアの自分の両親に電話を入れた。父親のジャンニーノが応答した。マルコは言った。
「ここから動けないが、消火活動が盛んに行われているから大丈夫。何も心配しなくていい。間もなく鎮火するはずだ」マルコは何度も繰り返した。
父親のジャンニーノは「息子は私の妻と事件現場にいるグロリアを安心させようとして、問題はない、心配するなと言い続けていたようだ」と後に新聞記者のインタビューに応えて話した。
ロンドンまで
2016年秋、グロリア・トレヴィザンはトップクラスの成績でベニス大学の建築学科を卒業した。しかし不況にあえぐイタリアには満足のできる仕事はなかった。
グロリアは今年3月、恋人のマルコと共に仕事を求めてロンドンに移住した。マルコも彼女と同じ新米の建築家である。マルコもまた優秀な成績で大学の建築学科を卒業していた。
グロリアはイタリアでは、月にわずか300ユーロ(4万円)程度の不安定な仕事しかできなかった。マルコも似たような状況にあった。彼らはイタリアを諦めてロンドンに夢を追うことにした。
2人の動きは、仕事と夢を求めて国外に流れるおびただしい数のイタリア人若者の象徴的な姿だった。イタリアの若者の失業率は40%余り。実感としては、行き合う若者の2人に1人が失業者、という惨憺たる状況だ。
グロリアの父親は、「娘が死んだのは、経済不況を手をこまねいて見ているだけの無能な政治家や政府のせいだ」、と強い怒りをあらわにした。
夢かなう
ロンドンではグロリアとマルコは2人ともに名の通った建築設計事務所に即採用になった。給料もそれぞれ一ヶ月2100ユーロ(約26万円)と新米建築家としては満足のいく額だった。それが今年3月である。
2人は高層マンション、グレンフェル・タワーの23階に住まいも得た。広い快適な部屋である。グロリアは4月10日、高層階から眺めるロンドンの景色はすばらしい、とSNS で写真付きの投稿もしていた。
ゴッタルディ夫妻は5月に息子のマルコをロンドンに訪ねた。マルコはグロリアと共に幸せで希望にあふれ、仕事も暮らしも順風満帆の時をエンジョイしていた。2人がロンドンに移住して本当に良かったと両親は思った。
一方グロリアの両親は経済的に困窮していた。ロンドンに娘を訪ねる余裕はなかったが、彼女が近く帰省することを楽しみにしていた。グロリアには夏までにその予定があったのだ。
火災概観
2人が入居しているグレンフェル・タワーの5階で6月14日に起きた火災は、火の回りが異常に速く20分ほど(15分という目撃証言まである)で建物全体に広がった。そのため高層階にいるグロリアとマルコは逃げ道を絶たれた。
必死の消火作業も空しく、炎は燃え盛って手がつけられない状況になり、その一部始終がイギリスはもちろん、世界にも衛星を介して伝えられた。
終焉
午前3時過ぎ、イタリアのテレビも生中継でロンドンの火事の模様を伝え始めた。テレビの恐ろしい映像にかぶさるようにその時、絶望の淵からふりしぼられたグロリアの冒頭の必死の声が聞こえてきた。
「お母さん。どうやら私はここで死ぬことになるらしい。今日まで私のためにたくさんのことをしてくれてありがとう。私は天国からお母さんたちを見守ります」その声に両親は、呼吸をすることさえもが苦しいような痛みと無力感に心身を打ち砕かれていた。
マルコの父親が息子の最後の声を聞いたのはそれよりも後のことだった。「ここの部屋の中にも煙が充満して危機的な状況だ」とマルコが言った。彼の声音ももはや以前の落ちついたものではなく、断末魔の喘ぎにおののくのが分かる凄惨なものだった。朝4:07分にマルコの電話は切れた。
マルコの両親はその後も繰り返し電話をかけ続けた。グロリアの両親もイタリアのそう遠くない場所で全く同じ行為を繰り返していた。しかし、若者2人はもはやどちらの電話にも答えることがなかった。
エピローグ
6月 17日現在、グレンフェル・タワー火災の犠牲者の数は少なくとも30人。58人が行方不明。不明者の全員が死亡と考えられる。この数字は今後も増えて、犠牲者数は100人を超えるのではないか、という見方さえある。
同じく6月17日、イタリア外務省はグロリア・トレヴィザンとマルコ・ゴッタルディの死亡を確認した、と発表した。