
新婚旅行中の友人のゲイカップル・ディック&ピーターと共に
男女ともに大いにしゃべる文化
欧米社会では紳士たる男はしゃべることが大切である。パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、 自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、男は一生懸命にしゃべらなければならない。
「男はだまって、大いにしゃべる」のが美徳である西洋社会では、女性はさらにしゃべりしゃべって、しゃべりまくるのが善である。一般的にそうだが、より分かりやすく具体的にするために、僕は自分の妻のことを引き合いに出して検証してみることにした。
愉快な貴族と日本人
イタリア人の僕の妻も、しゃべりまくるのが女の善、というその例に漏れない女性である。もともと根が明るいいわゆるシンパーティカ(愉快)な人である彼女は、斜陽族とはいうもののれっきとした貴族家に生まれた。
そのために社交というものを徹底的に身につけさせられた。つまり生まれながらのおしゃべり好きが、社交を意識した教育を受けてさらに会話の達人になった。
若い頃は、おしゃべり好きではあるものの人見知りをするところもあって、シンパーティカ(愉快)力を十二分に発揮できない場合もあった。しかしながら少し年を取ってきた今は、初対面の人ともかまわずによく会話をする。
沈黙を美徳とする東洋の国で育った僕は、西洋社会に生きる者として懸命に会話の修得を心掛けてきたつもりでいる。妻を知ってからは彼女の実家を介してのパーティーや食事会等に招かれることも多くなり、さらにしゃべりの機会が増えていった。
その度合いはイタリアに住み着いてからは飛躍的に高まった。おかげで日本人としては僕は、人見知りをせず割合リラックスしてしゃべることができる部類の男になったのではないかと思う。
僕はそれらを割と無難にこなしている(と自分では思っている)が、実は内心では大いに疲れていないでもない。最近は1人でワインを飲みながら「~♪女は無口な人がいい~♪」などと舟歌い、八代亜紀ることもある。
ならば僕は妻のおしゃべりは嫌いかというと、ま、嫌いでも好きでもないが許せる範囲かな、というあたりが正直なところである。
女性からおしゃべりを取り上げるのは、多くの場合は「女であることを止めなさい」というにも等しい横暴ではないだろうか。
母のおしゃべりと子供たち
妻はロンドンで僕と付き合うようになった、もはや3世紀ほども前の遠い昔に、日本語を習い始めた。その後、僕の仕事の関係で1年弱日本に住んだ時期に日本語力を磨いた。
もとよりそれは、初歩的な日本語に毛が生えただけ、というにも近いレベルだったが、彼女はイタリアに定住後はその日本語を幼い息子2人に懸命に教えた。
僕はテレビ屋という仕事柄ロケを中心に出張が多く、且つ息子2人が幼いころは、在宅していても多忙過ぎて、思い通りに日本語を教える時間がなかった。妻はそんな僕に代わって彼らに日本語を伝授したのだ。
そこで役に立ったのが彼女の「おしゃべり」という武器だ。彼女は飽きもせずに子供たちと日本語で会話をした。おかげで息子2人は基本的な日本語を覚えた、とまではいかないが、かなり日本語に親しんだ。
息子2人の日本語能力は妻の日本語のレベルをすぐに超えた。しかし、彼らの日本語は、日本人の父親よりも「イタリア人の母親伝来」のものなのだ。僕は妻に大いに感謝している。
実は僕が子供たちに日本語を十分に教えなかったのは、多忙ということももちろんあるが、多くは会話能力の不足が主な原因だったのだ、と今ならわかる。
「おしゃべり」の理由(わけ)
妻を含む世の多くの女性のおしゃべり好きは、ドーパミンという快感ホルモンの作用によることが分かっている。
女性の脳にとっては話すことが快感として意識され、快感によってさらにドーパミンが分泌されて会話がますます進む、という相乗効果が起こる。
また女性には、精神を落ち着かせたり幸せな気分を生む、セロトニンという神経伝達物質が男性よりも不足しているため、ストレスや不満や鬱憤を多く抱え込みがちになる。それらのもやもやを一気に晴らしてくれるのも、またおしゃべりなのである。
そのおしゃべりがドーパミンを呼んで元のおしゃべりがさらに快調になり、再びドーパミンが分泌されて・・と、どんどんポジティブなおしゃべりの循環が始まる、というのが女性のおしゃべりの科学的説明だ。
ところで、おしゃべりというのは「暴力を抑止する」作用もある、と僕は考えている。おしゃべりを対話やコミュニケーションに置き換えてみればそれはよく分かるのではないか。
対話を拒む者は暴力に走りやすい。何事につけ一方的に相手が悪いと思い込み、相手の意見を聞かず従ってコミュニケーションを否定し、やがて爆発して暴力を行使する。
おしゃべりが女性の武器
女性たちは原始のころ、男たちが狩りに出払った集落内で平和に暮らす必要があった。自分の子供たちを守り、銃後の集団を守るためだ。
そこではコミュニケーションが重要だった。銃後を守る女性たちは、文字通り銃(武器)ではなく対話によって平和を保ち生存を全うしようとした。そうやって女性たちの会話能力はますます磨きぬかれていった。
会話の少ない男たちがどちらかというと暴力的なのに対して、女性たちが穏やかで平和的であるのもおしゃべりのおかげなのだ。だから僕は「女性のおしゃべりバンザイ」と言わざるを得ないのである。
現在、銃後の存在であることをやめた女性たちは、どんどん世の中に進出して日毎に活躍の場を広げている。そして世の中には彼女たちの進出を恐れる臆病者の男たちが多くいる。それは往々にしてネトウヨヘイト系の国民や同系統の政治家や権力者らである。
彼らは日本に限って言えば例えば、韓国や中国に経済力で日本が追いつかれ追い抜かれたことに仰天して、かの国と国民にヘイト感情を露わにして己れの不安とひがみ根性を隠そうとする。それと同じ心理作用から彼らは、社会進出目覚ましい女性への恐怖心を隠そうとして彼女たちの能力を見下したがる。
性的魅力
能力を十二分に発揮する女性は、性的に魅力がない、などと公に口にするやからもいる。私的な集団や男同士の会話の中では、そういう指摘や主張は割と普通のことだ。彼らは「家の縛り」から抜け出た女性たちが気に食わないのだ。
彼らにとっては、例えば英国のサッチャー元首相などというのは女性としての魅力はゼロというようなものだろう。でも僕は-奇をてらって言うのではなく-彼女は女性としても魅力的な人だったと思う。彼女は「女性のままで」強かったから魅力的で美しかったのだ。
それに比較すると、今の日本に多い男の真似をしているだけの「オヤジ型女性政治家」なんて偽者だし醜い。自民党の閣僚や閣僚級の女性議員また野党有力議員などがその典型だ。
彼女たちとは逆に見える、例えば稲田朋美防衛大臣の如きブリッ子的オバハン政治家もいる。だが「不自然」で「主体性がない」彼女は、‘不自然で主体性がない’というまさにそのことによって「オヤジ型女性政治家」に分類される存在なのだ。
それらのタイプの政治家は実はイタリアにも多い。つまり「オヤジ型女性政治家」が跋扈(ばっこ)する社会現象は、まさにイタリアや日本などの「女性の社会進出が遅れている国」に特有のものなのである。
権力者は女性のおしゃべりから学べ
権力を握っている男性政治家らは「女性が活躍する日本を作る」などと口先だけのスローガンを標榜して持ち上げる振りで、実は女性たちへのヘイトを内心に秘めた陰湿な言動や行為や実働に終始する。安倍晋三首相などもその1人に見えなくもない。
時代錯誤な封建思想と、臆病風に吹かれているそれらのネトウヨ・差別・排外主義者、あるいは憎悪・暴力愛好家のトランプ主義者らは、今こそそれらの色眼鏡をかなぐり捨てて、男と女は「違う」が能力は均等、つまり「違いは能力の優劣ではない」という、当たり前の真実を認めて世の中を見、女性を見、自らを凝視するべきなのである。
そのためには先ず女性に倣(なら)って、コミュニケーション能力あるいは「おしゃべり力」を獲得するべきだ。それが「軍事」優先ではなく「対話」優先の平和外交につながる。繰り返すが「対話」とは「おしゃべり」の換言なのである。
古来、戦争を始めて殺戮をする者はほぼ常に男だった。戦争を起こした女性は歴史上皆無ではない。しかしながら女性は、物事を対話とおしゃべりによって解決しようとするから、紛争や殺戮を男よりもうまく避けることができる、と思うのである。