パツァス
ギリシャ料理は僕の勝手なランク付けでは、世界で第5番目に美味い食べ物だが、中でもギリシャ南端のクレタ島料理が特に美味い。
クレタの島料理は、素材が新鮮でそれなりにおいしい魚介レシピよりも、肉料理のほうが豊かである。豚肉と鶏肉が上等で牛肉も美味い。また羊肉料理も秀逸である。
それらの肉料理は、ほとんど全て島の野菜と共に提供される。クレタの島野菜は、まるで家庭菜園の産物でもあるかのように色鮮やかで味が濃く、新鮮そのものである。
サラダで食べても一級品だが、肉に合わせて煮たり焼いたり味付けされたりした野菜もすばらしい。クレタ島は地味豊かな且つ陽光目覚ましい土地柄。野菜の風味も芳醇なのである。
野菜をサラダで食べるときにはオリーブ油が欠かせない。クレタ島はオリーブ油の一大産地であり消費地。ギリシャ全体の約50%を産出し住民の1人当たりの消費量は世界一である。
今年9月に滞在したときは、島産のオリーブ油と醤油で味付をしたサラダを文字通り毎日食べた。僕はもう40年近くサラダをオリーブ油と醤油のドレッシングで食べている。もちろんイタリアでも。
休暇の終わりにはクレタ島第2の街ハニアで、ロンドンの映画学校時代の友人と会食をした。ギリシャのアテネ出身の友人は先年、英国人の奥さん共々クレタ島に移住したのだ。
ハニアの中心街にある市場の中の店で、友人が勧めてくれたパツァスを食べてみることにした。パツァスは豚の胃や腸その他の内臓を煮込んだスープ。牛や羊の内臓も使うという。
僕はその料理を、日本のもつ煮込みやイタリアのトリッパ(牛の胃の煮込み)を想像しながら注文した。ところが出てきたのは、内臓のエグい臭いが沸き立つ代物。良く言えば珍味、はっきり言えばゲテモノ料理だった。
大げさではなく吐き気を催すほどの臭みをぐっとこらえて、僕は口の中の異物を喉に流し込んだ。友人自慢のギリシャ料理を吐き出すのはとてもできなかった。
僕はその後、唐辛子のエキスが詰った激辛のスパイスを大量にスープにぶち込んで、味も臭味もわからないようにした上で必死に、おもむろに、だが完食した。
食べ終わったあとに友人が言った。「良くそんなまずい物が食べられるね」と。実はそれは、イタリアのトリッパと同じで人の好き嫌いが大きく分かれる食べ物であり、彼は大嫌いなほうなのだという。
それを早く言え、と思ったが後の祭りだった。それにしても、日本のもつ煮込みは言うまでもなくイタメシのトリッパにも内臓の臭味はない。パツァスの腐臭じみたにおいは驚きだった。
僕はそこで故郷の沖縄のヤギ汁のにおいを思った。好きな人にとっては強い「風味」であるヤギ汁の臭みは、ヤギ汁が嫌いな人や慣れない人には風味ではなく「異臭」として感じられる。
パツァスの独特のにおいもおそらくそれと同じものである。ある食べ物の「特異な風味」は、それが好きではない者にとっては、「ゲテモノ」とほぼ同義語なのである。
世界の観光地では地元の味をかたくなに守る店がその狷介ゆえに人気がある場合と、観光客向けに味を改良あるいは改悪して人気が出るケースがある。
クレタ島のハニアで僕が食したパツァスは、古いレシピを頑固に守っているという店のひと皿なので、島内の他の店のパツァスとは違っている可能性がある。
その店には地元民らしい客が多かったが、観光地のクレタには、旅行者の嗜好に合わせて、臭いを抑えたパツァスもきっと提供されているに違いない。
伝統料理パツァスの名誉のためにもそう付け加えておく。が、しかし、たとえにおいを制御したパツァスであっても、僕は今のところはもう一度それを食べようという気にはならない。
つづく