
夏恒例のトマトソース作り
異常気象、といっても異常が通常になっていて、もはやあまり意味をなさない。だがイタリアでは今年は、水不足と暑さのせいなのか野菜の成長が急激で、サラダ菜などは7月中に花が咲いたり、老いて硬くなったり、枯れたりしてほとんど食べられないものが多くあった。
トマトの出来も良くなかった。主茎も側枝 も大きく育って木のようになったにもかかわらず、実があまり成らなかったのだ。それでも7月19日に第一回目の収穫をした。昨年に比べると10日ほど早かった。実の数は少ないが成長が早かった、ということだ。その後、どちらもひどく少ない量だがさらに2回トマトソース作りをした。
ここ北イタリアは3月以降は極端な少雨で4月、5月は冷えた。6月になると相変わらず少雨ながら日差しは強かった。おかげで野菜の成長は早くなった。7月に入ると気温が高くなり野菜はますます良く育った。雨もテンポラーレ(強風を伴う雷雨)が適度に襲って結構降った。
ところがその時期、北イタリアの一部を除くイタリアの大部分は雨がほとんど降らず、旱魃に見舞われていた。ローマでは給水制限が検討されるほど事態は深刻だった。
不思議に思うのは、4月~5月の寒さを除いて、ここ北イタリアのロンバルディア州一帯では結構な日差しと降雨があったにもかかわらず、つまり割りと通常の天候であったにもかかわらず、野菜の成長が異常に早かったという点である。
イタリア半島全体が暑さと水不足になることを察知して、野菜の多くは自ら成長を早めて花を咲かせ種を実らせたのではないか、と思ったりしている。
今夏よりも日差しが強く、日照時間も長く、且つ暑いイタリアの夏は過去に何度もあった。当年が過去と違うのは、3月~6月の間に雨がほとんど降らなかったことだ。今年は過去60年間で2番目に乾いた春期だったのである。
奇態な春の気象状況は夏になってもそのまま続き、北イタリアの一部を除くイタリア半島は高温と旱魃に苦しんだ。水不足は農作物を直撃して大きな損害をもたらした。飲料水にまで影響が出て、首都ローマは給水制限にまでは至らなかったものの、噴水や水飲み場の閉鎖を強いられた。
僕は小さな菜園に多種類の野菜を少量づつ作って、多彩な生態を楽しみ多様な味をエンジョイしている。もとよりそれは趣味の域を出ず、野菜たちの世話も時間があまりない関係で十分と言うには程遠いものだが、おかげで季節変化や天気の動きに以前よりも敏感になった。
いくつかの野菜の今年の奇妙な成長振りを見てふと思った。もしかするとそれらの植物は、春から夏に至る季節の乾きをなんらかの途方で事前に悟って、子孫を残すため、つまり種の保存のために、速く成長し花を付けて種子を得ようとするのではないか。
それが事実ならその途方とは、要するに遺伝子である。遺伝子には子孫を残そうとする強制力がある。子孫を残そうとしない生物はたちまち淘汰され絶滅するからだ。野菜たちは意思や原因や目的とは全く関係なく、今年は遺伝子の働きで急いで種(たね)を作ろうとした。。。
ということは、野菜には意思はないが、遺伝子にはそれに近い何かがある、という結論になる。今現在そこに存在している生物とは、子孫を残そうとする遺伝子を持つ生物、のことである。そこには機械的なプログラムが存在しているだけだ。自然の摂理と言ってもいい。
だが、この先の乾き(水不足)を感知して今年は速く成長しよう、と遺伝子がはたらきかけたのであれば、それは遺伝子の意思とも呼べるべきものである。子孫を残そうとする通常の機械的なプログラミングに加えて、遺伝子には特殊状況に対応する意思や手段も備わっている。
という具合に考える先から、それはおかしい、とも僕はまた考えた。遺伝子にそのような力があるならば、全ての生物(の遺伝子)が「先の危険」を予測し、それを避けようとして何らかの方策を企てるのではないか。僕の菜園の野菜たちが種を残すために急速に成長したように。
その思考過程を経て僕はまたあらたな発見をした。つまり今年は多くの農作物が水不足でいびつな育ち方をしたり、結実しなかったり、果ては枯れたりしたが、実はそうした弊害は、それらの作物が僕の菜園の野菜同様に「急激に成長しようとした結果」もたらされた毀損なのではないか、と。
それならば作物の不作は、来年の豊作へ向けての準備段階、という考え方もできる。つまり不作は豊作の予兆。従って喜ぶべきこと、と捉えられないこともない。こんなことを口にすれば、耕作で生計を立てている農家から「オチャラケを言うな。俺たちにとっては今年の不作、つまり生活が破壊される現実だけが問題だ」と憤慨されるだろうが。。。
楽しみと同時に、いろいろなことに気づかせてくれるのが菜園である。