「国際報道2017」衛星放送JSTVの画面より
ブログの面白さのひとつは読者の反応が速いことである。また読者とすばやくやり取りできる利点もある。
読者とのやり取りはメールが多い。つまりそこでの読者とは、昔からの友人知人がほとんどである。電話で話すこともある。
最近はFacebookの個人メッセージ欄でやり取りをするケースも生まれた。それは誰もが読む公のコメント欄とは違い、真剣で長い内容になるのがほとんどだ。
ブログ更新はFacebookで自動告知しているが、記事によっては個別の読者にメールで「一読を願いたい」と知らせることもある。
公のコメント欄の指摘も興味深いが、個別にやり取りをする時の批判や指摘や叱責、また極くたまにいただくお褒めの言葉などは、示唆深く励みにもなる。
ブログはもはやオワコン、古い表現形式、という声がある。そうなのかもしれないが、読んでくれる読者がいる限り続けるつもりでいる。
ブログ書きは進歩か退歩か知らず、また写真などのより良い使い方も分からないながら、読者とインタラアクティブな関係でいられることは得がたい喜びと感じる。
閑話休題
この直前の記事“NHK「国際報道2017」にひそむアナクロニズム”に関しても何人かの読者からメールで感想をいただいた。
彼らは記事の告示をしたFacebookの友達ではなく、また今回はメールによる個別の連絡もしていないので、自発的に記事を読んでくれた方々である。
それらの皆さんの了解を得たうえで、いくつかの疑問や反論に応え、また僕の注釈や「言い訳」もはさみつつ追記を書くことにした。
Q.増井渚キャスターを少し褒めすぎていませんか?
A.
そのつもりはありません。「物知りの兄」花澤キャスターに教えを乞う時の、無垢だが頭が空っぽという雰囲気のシーン以外は彼女は、少なくとも普通の、情報通の、ジャーナリストに見えます。それはNHKが出来が良い、と判断したレベルのジャーナリストという意味です。つまり相当に優秀な人材ということです。
NHKが、報道系の看板番組の一つである「国際報道2017」のサブキャスターとして採用した、外部スタッフが無能とは考えにくい。そのことを証明するように増井キャスターの「無垢だが頭が空っぽ」の役回りと、それ以外の役回りの間には大きなギャップがあります。そのことを指摘するために彼女を有能、能力が高いと形容しました。
申し上げるまでもないことですが、私は増井渚キャスターを個人的には知りません。従って彼女がいかなる能力を持つ人物かを知る由もありません。私は番組を見続ける中で、彼女が「仕事のできる」有能な人のようだとの印象を持ったのです。もちろん私の「印象」はあくまでも「印象」に過ぎないのですから、間違っている可能性も十分にあると思います。
Q.女性差別的というなら、当の増井キャスターさんが声を挙げたらどうでしょうか。
A.
フリーランスの彼女は弱い立場です。声を挙げたら職を失う可能性も高いでしょうから、与えられた立ち位置には中々逆らえないのではないでしょうか。私はNHK所属の女性スタッフたち、つまり「NHKの正社員」はどうして女性差別的な設定に声を挙げ(て反対し)ないのか、と記事に書きました。
そこでは番組の出演者の一人でもある岩田明子解説委員や、元ワシントン支局長で昨年の同番組のメインキャスターでもあった田中淳子氏などを念頭においていました。NHKの多くの女性幹部の中でも直接に同番組に関わっている彼女たちが、声を挙げて内容の歪みを指摘すれば、権力者の男性らも無視できないと思うのです。
でも2017年11月30日(木)現在、番組の内容に変化はありませんから、誰も声を挙げていないと推測されます。それはなぜなのでしょう。まさか両氏ほかの女性スタッフが、女性差別的な内容に気づかないはずはないと思うのですが。
Q.「国際報道2017」はNGで、「これでわかった!世界のいま」 はOK、というのはダブルスタンダードではないでしょうか。
A.
番組のコンセプトが違います。「これでわかった!世界のいま」は専門家のNHK記者が、何も知らない女性タレントに教室で講義をし啓蒙する、という形式です。つまり女性タレントは無知な生徒、と端から決められて話が進められます。むしろ彼女はバカ(無知)でなくてはならないのです。また生徒は女性ばかりではなく男性もいます。
一方「国際報道2017」は、メインとサブという違いはあるものの、男性と女性のキャスターは同列の設定です。それでいながら、男性は全知で女性は無知、という立ち位置を取るコーナーがある。それは差別です。もしも作り手がそのことに気づいていないのなら、それは意識した差別よりもさらに性質が悪い。「無自覚の差別」ほど深刻な差別はありません。
拙記事“NHK「国際報道2017」にひそむアナクロニズム”に感想を寄せてくれた皆さんの文面や、読者全体の漠然とした反応また雰囲気からにおってくるのは、番組内容の一部を女性差別、とまで決めつけるのは行き過ぎではないか、という不満である。
そのことに気づいて以来僕は、番組制作者もNHKの女性幹部も、そしてあるいは増井渚キャスター自身でさえも、僕の記事の読者と同じように「設定を女性差別的とは感じていない」のが現実なのではないか、とも考えたりしている。
その状況は、たとえばイスラム教徒の女性が、ヒジャブの着用を義務付ける宗教や社会に強制されて、外出時には必ずスカーフを用いながら「私は自由意志でスカーフを身に着けている」と主張するのに似ている。
その女性がスカーフを巻いているのは自由意志によるものではない。もしもそれが自由意志というのであれば、彼女には「スカーフを身に着けない自由」もなければならない。着る自由はあるが脱ぐ(身に着けない)自由はない、というのは真の自由ではない。
女性がこと更に「自由意志でスカーフを着用している」と言い張るのは、彼女がそこにある抑圧と差別に気づいていないか、気づかない振りをしているのである。そして二つの状況のうちでより深刻なのは、当事者が「気づいていない」場合だ。
無自覚の差別がなぜより深刻かというと、被差別者が差別されていると気づかない場合、差別している側はもっとさらに差別の実態に気づいていない可能性が高いからだ。そういう社会では、被差別者がある日差別に気づいて「差別をしないでくれ」と叫んでも、是正は遅々として進まない。差別をする側には「差別が存在しない」からだ。
一方、差別をする側が「差別の存在に気づいている」場合は、被差別者が差別をするなと声を挙げ闘い続ければ、たとえ差別をする側のさらなる抑圧や強権支配があったとしても、いつかその差別が是正される可能性がある。とにもかくにも「差別が存在する」と誰もが認めているのだから。
男女格差の問題では日本は、イスラム女性のヒジャブのあり様ほどではないにしろ、依然として女性にとって厳しい状況が続いている。「世界経済フォーラム」が毎年発表する「ジェンダーギャップ指数」の2017年版では、日本の順位は144か国中の114位。過去最低だった2016年の111位からさらに悪化した。
ジェンダーギャップ問題を解消することの意義は、単に女性の地位を上げて差別をなくすことではない。また単に男性の意識を変えることでもない。それによって日本という国家がさらに進歩し開かれ、多様性と寛容に満ちた社会に生まれ変わるための、多くの筋道のうちの巨大な一歩だから、ということに尽きるのである。